★★★ 日本再生ネットワーク 厳選ニュース ★★★

sakura4987.exblog.jp
ブログトップ

◆マーガレット・ミードは完全に否定されている!

http://homepage1.nifty.com/1010/mead.htm

①ミード のチャンプリ族研究は誤りだった!

『ヒューマン・ユニバーサルズ』ドナルド・E・ブラウン(新曜社)より

(要約)
・1970年代にゲワーツはチャンプリ族を再調査し、彼等を取り巻く状況をミードが誤って解釈していることを発見した。
・ミードはチャンプリ族においては「男性と女性の態度が逆転しており、女性が優位であって感情的ではなく仕切る側であり、男性側が責任を欠き依存的である」とした。
・しかし、ゲワーツの調査では、ミードの報告した男女の姿は見られず、男性は攻撃的、女性は服従的であり。男性はしばしば女性に暴力をふるっていた。
・女性は一家の稼ぎ手ではあったが、重要な取引が決定される舞台に出ることはなく、労働の産物をコントロールするのは夫や父親であった。
・女性が優位に立つのは「他部族の女性」との魚とサゴ(ヤシ)の交換においてであった。チャンプリの女性は、サゴを作る内陸部の部族を劣った存在だとして服従させていた。これがミードには男性的に見えたらしい。
・チャンプリ族は近隣部族との戦いに敗れて島を追い出され、長い間流浪の身にあった。この間、チャンプリ族は自分たちよりも劣位にある内陸部の部族の間に居を定め、内陸部の部族の女性と結婚する者もいた。これによって、チャンプリ族の男は自らの優位性を無効にしてしまった。チャンプリ族がかつての島に帰ったとき、内陸部よりも優位を示すことがチャンプリ女性の責務であり、それがために高圧的(男性的)にふるまった。
・チャンプリの男たちが時間の大半を絵を書いたり踊りをするなどの(女性的な)芸術活動に費やしていたのは、自分たちが島から追い出されたとき、儀礼用具が焼失していたため、それを再建するのに忙しかったのである。
・ミードが見たのは、男性間の競争が一時的に弱まった状況であった。チャンプリの女性が攻撃的で支配的であった場面もあったが、それはチャンプリの男性に対してではなく、他部族に対してであった。

筆者は言う。
「女性が公的な場で男性よりも優位に立つ社会が存在したという報告は一つもない」
以下がゲワーツの本です。
Cultural Alternatives and a Feminist Anthropology

『子育ての大誤解』ジュディス・リッチ・ハリス(早川書房)より

P288
 赤ちゃんは男性にも女性にもなれる可能性を持っており、男らしい行動や女らしい行動はすべて文化的に養われるものだという考え方を普及させたのは人類学者のマーガレット・ミードだ。既存の考え方を通して物事を見るという彼女の癖を物語るもう一つの例ともいえよう。
 彼女はチャンプリ族を、男性は女性的に、女性は男性的に行動しているかのように著した。柔順で不安気な男性と、強く偉そうに振る舞う女性。人類学者ドナルド・ブラウンによると、ミードは誤った解釈をしていた。実際にはチャンプリ族の間では
「一夫多妻が当たり前で、女性は買われて男性の妻になり、男性は女性よりも強く、女性を殴ることを許され、男性が主導権を握るのは当然だと思われていた」という。
 私たちが知るあらゆる社会では、男性と女性とでは行動様式が異なる。そのパターンの違いは万国共通なのだ。男性は権力を掌握し、影響力のある地位に就くことが多く、女性は他人の世話に従事することが多い。(中略)
 世界中の人々が男性と女性に関する似たようなイテレオタイプを抱いているのは偶然ではないだろう。社会心理学者ジョン・ウィリアムズとデボラ・ベストは多種多様な二十五カ国の大学生に質問用紙を配り、それぞれの性別に関して使われることの多い形容詞に印をつけるよう依頼した。その二十五カ国すべてにおいて、男性は攻撃的、活動的、無謀、強靭といった形容詞と関連性が高く、女性は愛情豊か、慎重、感受性豊か、さらに感情的といった形容詞との関連性が高かった。

②ミード自身も「性差が逆転した社会を発見した覚えはない」と述べている!(日本初公開の情報です)

http://www.mugu.com/cgi-bin/Upstream/People/Goldberg/science.html

これは、「アップストリーム」というページですが、ここにニューヨーク市立大学社会学部長のスティーブン・ゴールドバーグ博士が寄稿しています。冒頭の部分は以下の通り。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
IN 1935, when Margaret Mead published her Sex and Temperament in Three Primitive Societies, the prevailing view was that the basic differences between masculine and feminine behavior was owing to physiological differences. In attempting to correct a view that was nearly as exaggerated as the absurdly environmental explanation of ex differences that infuses the social sciences today, Missad exaggerated the degree to which one of the societies she studied (the Tchambuli) associated what we would call the
masculine with women and the feminine with men.

Few social scientists bought this view. For example, Jesse Bernard, who would have very much liked to be able to accept Miss Mead's conclusions,pointed out that, if the reader ignored the adjectives, the Tchambuli did not seem very different from other societies. "Effete" headhunters and "comradely" women feeding their children are still male headhunters and women feeding their children, and it is only the adjectives provided by Margaret Mead that even begin to suggest otherwise.

In response to such criticism, Miss Mead wrote a famous letter to The American Anthropologist in which she pointed out that Nowhere do I suggest that I have found any material which disproves the existence of sex differences. . . . This study was not concerned with hether there are or are not actual and universal differences tween the sexes, either quantitative or qualitative.

Over the course of fifty years Miss Mead repeated her denial a hundred times, in response to one or another claim that she had found a society that reversed sex roles; in a review of my The Inevitability of Patriarchy,
she wrote: It is true, as Professor Goldberg points out, that all the claims so glibly made about societies ruled by women are non-sense. We have no reason to believe that they ever existed. . . . Men have always been the leaders in public affairs and the final authorities at home.
Finally, eight years ago I published--in the American Sociological Association's journal of book reviews, perhaps the most-read journal in sociology--a letter making all of the above points.

Now, one would think that all this would be sufficient to preclude even the most ardent environmentalist's invoking Margaret Mead's study as evidence of sex-role reversibility. And yet, a couple of years ago I went to Barnes and Noble and located 38 introductory sociology books published in the few preceding years. Of these 38, 36 began their sex-roles chapters with a discussion of Miss Mead's work on the Tchambuli and how it demonstrates the
environmental nature of male and female behavior.

It is not clear how many of these 36 knowingly misrepresented the facts and how many were incompetent as much as dishonest (uninformed cribbing from other textbooks is near-standard procedure in introductory-textbook iting). But it is clear why the textbooks misrepresent the vidence.
They, like the discipline whose work they represent, have an ideological commitment to denying that masculine and feminine behaviors and emotions are rooted in male and female physiologies and that all social systems conform to the limits imposed by this reality.
My point here is merely that no case can be made for Miss Mead's having even claimed to have demonstrated that the Tchambuli refute that explanation. Yet 36 of 38 ntroductory sociology textbooks state it as truth.

(訳)
1935年にマーガレット・ミードが「3つの原始社会における性と気性」を出版した時は、男性的・女性的な行動の基本的な違いは生物学的違いによるものであるというのが定説であった。昨今の社会科学には愚かしいまでの性差環境起因説が見られるが、この頃のこの説もそれと同じくらい誇張されたものであった。そして、この生物学による説を覆す試みとして、ミード女史は彼女が研究した社会の一つ(チャンブリ族)における女性のいわゆる男性的性質と男性の女性的性質の度合いを誇張して発表した。

このミード女史の説をすんなり受け入れた社会科学者はほとんどいなかった。例えば、ジェシー・バーナード(フェミニスト社会学者)はミードの結論を受け入れるのはやぶさかではなかっただろうが、その彼女でさえ次のように指摘している。

チャンブリ族の男と女の描写に見られる形容詞に注意を払わずに読んでみれば、チャンブリ族は他の社会と対して変わらないのではないか。「精力に乏しい」狩人と「好戦的な」、子どもに食事を与えている女というのはそれでもやはり狩人は男であり、子どもに食事を与えているのは女であり、男女の役割が逆転しているようにさえ示しているのはマーガレット・ミードが使っている形容詞のみなのである。

このような批判に答えて、ミード女史は「アメリカ人類学」への投稿で、このように指摘している。

性差の存在を否定するような実例を見つけたなどとは私はどこにも書いた覚えはありません。この私の研究は実際に普遍的な男女の性差が量的もしくは質的に存在するかしないかに関するものではなかったのです。

50年にわたり、ミード女史は次から次へと湧いて出た、性差が逆転した社会を発見したと述べたではないかという主張に対し、徹底して否定し続けた。私の「家父長制の必然性」の書評でも、彼女は次のように書いている。

実際、ゴールドバーグ博士が指摘しているように、女性が統治する社会について立て続けに成された主張は全てナンセンスである。そのような社会が存在すると信じる理由はどこにもない。・・・男性は常に公事における指導者であり、家庭における最高権力者でありつづけたのであるから。

そして8年前、私は「アメリカ社会学協会の書評ジャーナル」(おそらく社会学のジャーナルとしては最も読まれているものであろう)に上記の点を全て指摘した投稿をした。

さて、これで最も熱心な環境起因説論者のマーガレット・ミードの研究を性別役割逆転の可能性の証拠として訴えることを排除するのには十分であるとお思いであろう。しかしながら、私は2年前にバーンズ・ノーブル(アメリカの大手チェーン書店)へ行き、その2,3年ほど前に発行された初級社会学の本を38冊見つけた。
これら38の本のうち、なんと36もの本が性別役割の章をミード女史のチャンブリ族の研究についての議論を冒頭に持ってきており、それが男性・女性の行動がどのように環境に影響される性質があるかを示している。

これら36の本のうち、どのぐらいが事実を確信的に誤解釈したのか、また、どのぐらいが事実を見ぬく能力がなく、不正直であったのか(検証なしに他の教科書から丸写しすることは初級教科書の執筆に当たってはほぼ常套手段である)は定かではない。

しかし、何故教科書が証拠を歪曲して提示するのかは明らかである。これら教科書は、それらが代表する学派と同様、「男性的・女性的行動と感情は生物としての男と女の違いに根ざすものであり、全ての社会のシステムはこの現実によって課せられた制限に沿うように出来ているということを否定しなければならない」という、イデオロギー上の使命を持っているからである。

ここでの私の論点はただ単に、ミード女史が゛チャンブリ族が上記の説を反駁している゛ことを示したとの主張を支持するケースはないということだけである。にもかかわらず、38の初級社会学の教科書のうち36冊がそれを真実として述べているのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ミード自身も「女性が統治している社会などない」と認めているにもかかわらず、フェミニスト達はミードの研究を事実として吹聴しているのです。

③文化決定論の基礎となった『サモアの楽園』もデタラメだった!

ミードはサモア諸島におけるフィールドワークによって、サモアでは競争も抑圧もなく性が解放されているがゆえに青年期のストレスや葛藤がないということを『サモアの思春期』という本にまとめました。しかし、その後の再調査によって、ミードの研究が杜撰なものであり、現地の娘たちにからかわれたにすぎなかったことが判明しています。詳しくは『マーガレットミードとサモア』(みすず書房)や神名さんの「ミードの幻想(サモア編)」をお読みください。
これによって、ミードの「文化決定論」を論拠にした社会(共産)主義運動やコミューン運動、フェミニズムやジェンダーフリーは根底から覆されるのです。

④補足

以下のサイトもご覧下さい。
http://www.caribscape.com/baldeosingh/social/sober/2000/culture2.html

重要な部分を訳しておきます。

「マーゲレット・ミードの有力な論議。即ち、サモアには(文明社会と異なり、)思春期/青年期に特有のストレスがないこと、また、性的な気質(と普通考えられている性差に起因する気質)がチャンブリ族の人々の間では通常とは逆になっているとのミードの主張は、所謂タブララサ的な心の見方(人間は真っ白な心の状態で産まれて来るという経験論的な人間の精神観のこと、)と生物学に対する文化の明らかな優越性をこれまでサポートしてきてきたものだけれども、現在では投げ捨てられるにいたっている。
 ミードの結論は彼女のサモア諸島における研究、即ち、彼の諸島における性に無頓着な習慣、彼女の主張によれば、それらの習慣がサモア諸島の人々の気持ちを充足させ、サモア諸島の社会をして犯罪から無縁ならしめているという性を巡る習慣の研究に基礎を置くものだった。ミードの結論は特にチャンブリ族の研究。つまり、その部族では男女の性的な役割が通常とは逆転しており、例えば、男性がお化粧したり頭髪をカールにしたりしており、それらの性的役割の逆転が(ミードが言うには、)結果的に部族の男性をして柔和かつ穏やかな気ソを持つようにしているという、チャンブリ族の研究に基礎を置いたものだった。
 事実はこうである。サモアの人々は性的な嫉妬感情を持ち、サモアの社会にも他の社会同様にレープが存在していること。チャンブリ族の男性は妻にしばしば暴力を振るう人々であり、また、チャンブリ族では男性が成人するための通過儀礼の一つとして殺人を行う。そして、チャンブリ族の男性はこの通過儀礼を済ませて初めてその顔にフェースペイントすることが許されるのだが、このフェースペイントこそミードが女性的と考えた正に男性の化粧そのものなのである。これらのことが、その後の研究で明らかになった」
[PR]
by sakura4987 | 2006-06-22 04:54

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987