◆狂気のマネーの性転換手術
育て方で性別決定可能と主張
「男らしさ」「女らしさ」などのジェンダーが、現代の脳科学が明確に指摘している脳の性差の存在を無視し「文化的社会的に形成された性別」と定義されるようになったのはなぜか。その経緯を探り、ジェンダーフリーの“生みの親”とも言うべきジェンダー論の虚構を明らかにしていく。
今年の五月、北米の片田舎である男性が自殺した。その名は、デイヴィッド・レーマー(38)。幼いころ、ブレンダという名前の女の子として育てられるという数奇な人生を送った。一体、彼に何が起きていたのか――。
一九六五年、彼は男児の一卵性双生児としてカナダで生まれた。生後八カ月の時、受けた包皮切除手術が失敗。悩んだ両親はジョンズ・ホプキンス大学病院を訪ね、当時、性科学の権威として脚光を浴びていたジョン・マネーの勧めで、性転換手術を受けさせることを決意する。
六〇年代当時、半陰陽の成人に対する性転換手術は盛んに行われていたが、正常な男児を女児に性転換したという例はなかった。マネーはこれまでの半陰陽者の研究症例から、「男か女か」という性意識は生得的なものではなく、生育後の環境が性を決定すると仮説を立てた。男か女かという性のアイデンティティーが確立する、性の自己認知の門が開かれている二歳までであれば、性を自由に変えることができると主張していた。
マネーが自説の正当性を証明するためには、正常な性器と神経系統を持った男児に性転換手術を行い、成功事例を得る必要があった。当時、これは医学的な冒険だった。マネーの言葉に説得された両親は、六七年夏、一歳十カ月の双子の兄を医学的実験に委ねることとなった。
当然、男の子を女の子として育てるという医学的実験は、マネーの理論通りには展開しなかった。性転換手術の後、両親はブレンダと名付け、ドレスや人形を与え、懸命に女の子らしくつくり上げようと試みたが、しばしば男の子っぽいふるまいに悩まされ続けたという。後に「双子の症例」の欺瞞(ぎまん)を暴いた衝撃の書・『ブレンダと呼ばれた少年』(ジョン・コラピント著)で、双子の弟のブライアンは「ブレンダにはまったく女らしいところがなかった」と後述している。女の子らしさをまったく欠いていたにもかかわらず、科学者マネーはブレンダの成長記録を正しく見ることはなかった。
七二年、マネーが発表した論文「双子の症例」は、「性別の自己認識は環境的要因によって決まる」というマネー理論の実証事例として、医学界に大きな衝撃を与えた。当時、ニュースアメリカン紙は「ダーウィンの進化論にも匹敵するもの」と大賛辞を贈っている。
脳の構造的性差が十分解明されていなかったとはいえ、生物学的性差を無視して、「環境的要件で男にも女にも変えられる」という非科学的な仮説に基づき、狂気の人体実験に踏み込んだ。そこに、狂信的な性解放論者だったマネーの異常な性格傾向を見ることができる。
『ブレンダと呼ばれた少年』の著者コラピントは、マネーの原体験についてこう書いている。「鳥を無慈悲に殺す父親を見て、『野蛮な男らしさ』に対する嫌悪感を生涯抱き続けた」と。八歳の時、父親の死以後、母親や未婚の叔母に囲まれ、女性的な環境で育てられたマネーは、「私は自分が男であることに罪の意識をおぼえ、苦しんだ」と吐露。さらに「家畜だけでなく、人間の男も誕生時に去勢されたら、世界は女性にとってより良い場所になるのではないか」と記し、自分の性に強い否定感情を抱いていたと思われる。
「人間の性は自由に変えられる」。マネーがブレンダに行った医学的実験は、八〇年にブレンダが元のデイヴィッドに戻ったことで完全に失敗に終わる。思春期を迎え、与えられた性に絶望したブレンダは自らの意志で男性として生きることを決意、十五歳で本来の性を取り戻した。
だが、女の子として生きた過去を簡単に消し去ることはできない。結婚後もデイヴィッドは自らの性の問題に苦しめられ、三十八歳で自ら命を絶った。母親のジャネットさんは、「デイヴィッドにつらい思いをさせた、あの酷い人体実験が無かったら、彼はまだ生きていただろう」と語ったと、報じられている。
※人をおかしくするのは、こういった自分の名誉心の満足させようとする輩が出てくるからだが、それにしても自然の摂理に逆らうこの所業は、死んだ後が思いやられる。参画推進派の方も注意した方がいいですよ。