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◆注目の2判決が示唆する憲法判断


首相参拝も政教分離に抵触せず  国学院大学教授 大原康男  平成17年2月26日(土) 産経新聞

≪「参政権」の違憲性裏付け≫

 去る1月の26日と28日に注目すべき判決が相次いで言い渡された。前者は「東京都管理職試験訴訟」の最高裁判決、後者は「沖縄県靖国神社参拝訴訟」の那覇地裁判決。両判決についてこれまでほとんど言及されていない点を取り上げてみよう。

 周知のように、「東京都管理職試験訴訟」は日本国籍ではないことを理由に東京都の管理職試験の受験を拒否されたのは、憲法第14条の「法の下の平等」などに違反するとして、在日韓国人の保健師が都に損害賠償を求めていたものである。

 最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)は、地方公務員の中でも「住民に直接公権力を行使したり、重要な施策を決定したりする地方公務員には、国民主権の原理に基づき、原則として日本国籍を有する者しか就任できない」から、「都の措置は違憲、違法ではない」と判示、都に40万円の慰謝料支払いを命じた東京高裁の違憲判決を13対2の圧倒的多数で破棄した。

 たしかに、この判決は、外国人の地方公務員への採用・昇任を制限する国籍条項の是非について一定の司法判断を下したものであり、地方自治体に少なからぬ影響を及ぼすと思われるが、決してそれにとどまるものではあるまい。公権力の行使や重要施策の決定にかかわる職への就任制限が合憲であるならば、その背後には、そのような公務員を選ぶ権利も「日本国籍を有する者」しか与えられないという論理が含意されていると見てもよいだろう。

 そう、かねてから公明党が熱心に取り組み、今国会でも審議に入っている「永住外国人地方参政権」の違憲性が本判決によってあらためて裏付けられた、と。

≪信教の自由侵害は全否定≫

 もう一つの「沖縄県靖国神社参拝訴訟」は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に反発する人々によって、大阪・愛媛など全国6都府県で起された一連の訴訟の一つである。

 那覇地裁は、首相の参拝が職務上の行為であるか否かの判断に踏み込むこともなく、これまで出された5件の地裁判決(その中には判例としての拘束力のない傍論で不当な違憲判断を示した福岡地裁判決も含まれる)と同様、信教の自由や「宗教的人格権」「平和生存権」などの侵害を訴えた原告の請求をことごとく退け、原告の全面的敗訴を言い渡した。

 原告も、原告側に立つマスメディアも、傍論で「違憲」という見解を示した福岡地裁判決以外の判決は、すべて首相の参拝についての憲法判断を避けていると批判しているが、果してそうと言い切れるだろうか。

 本判決も「政教分離規定は、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教の分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由を確保しようとするもの」という津地鎮祭訴訟最高裁判決(昭和五十二年)以来の法理を踏襲しつつ、信教の自由の侵害は「少なくとも国家による信教の自由を理由とする不利益な取り扱い、または強制・制止の存在」がなければならず、本件ではそのような事実は「認められない」と明確に認定した。

 たしかに、判決は参拝行為の憲法判断には直接言及していない。しかし、政教分離が間接的に信教の自由の確保を目指す制度であるならば、本件で信教の自由の侵害が否定されたことは、首相の参拝が憲法の定める政教分離原則に抵触していないということを間接的に示唆している、つまり、必ずしも憲法判断を避けているとはいえない、と。

 以上指摘した二つの視点は「背後にある含意」とか「間接的に示唆」といった言い回しを敢えて用いていることもあって、少々強引な推断だと難じられるかもしれない。

≪ご都合主義の言論許すな≫

 しかしながら、永住外国人への参政権付与を推進する人々は、参政権が「権利の性質上、日本国民のみ」を対象とし、「外国人には及ばない」という最高裁判決(平成七年)の結論ではなく、これと矛盾する「参政権の付与は憲法上禁止されていない」という傍論を唯一の論拠としているに過ぎないし、また、“反靖国派”の面々も、単に玉ぐし料の公費支出を違憲としただけの「愛媛県玉ぐし料訴訟」最高裁判決から、事案をまったく異にする靖国神社参拝違憲の理屈を導き出そうとしたことがあったのだ。

 こうしたご都合主義の言論がまかり通るのであれば、たまにはこちらからも少しばかり“我田引水”的な文脈で語ることがあってもよいのではないかと思うことしきりである。





※なるほど!と思わず膝を打つ内容で、やはり人間、勉強が大事だとつくづく思った。私のような凡人は、どうしてもすぐに言葉自体に惑わされて事の本質を掴んでいない事が多々ある。

この「政教分離」というのも、上記の論文で目が覚めたし、「信教の自由を確保するため」の政教分離というくだりには、非常に納得した。このあたりの歴史的沿革をもっと勉強する必要があると痛感した次第だが、その結果はいずれ書きたいと思う。

そもそも「言論の自由」が「信教の自由を確保するため」に生み出されたものだという事も、昔は知らなかったが、その歴史を知ってしまえば、マスコミが言う「言論の自由」などを聞いていると哀れになってくる。

「政教分離」裁判にしても、真の「宗教的人格権」が何かを知ってやっているのだろうかと、疑問が尽きないし、「信仰」の何たるかが全く分かっていないと、見るに忍びなくなってくる。

「真理は汝を自由にする」という言葉があるが、本当の事を知らないということは恐ろしい事だと、過去を振り返って恥ずかしくなる時がよくある。

青春時代は、世界対自分という感覚で、自我のままに周りに迷惑をかけ、自分を縛っている鎖を振り払おうとあがき続けて、自分も親もぼろぼろになったるするが、大人になってみると、何も知らなかったという事に気が付いて、後悔のみが残ったりもする。

本当の事を知ることが、実は本当の自由への道であって、真実を知らないからこそ、人は錯覚して、逆に自分の欲望という鎖につながれてしまうのだろう。

そして、欲望を満足させないのが自分を縛る鎖だと勘違いし、その欲望を晴らすために、鎖を断ち切るために、のた打ち回っているだけだが、真実は、欲望を鎮める事が、自由への道であり、自分を解放する事になるのだという事に気が付いていないだけなのだ。

自分の子供には、「信用を作ることが、自由への道だぞ」と何度も言っているが、これがなかなか通用せず、信用を失うことをしては、逆に、自分を不自由にしているが、これも誰もが通る道なのだろうと、半ば諦めかけている。

そういう意味でも、真実を学ぶという事、学び続けるという事は、非常に大事な事であって、学びには限界がないという事もまた真実である。だから、「ゆとり教育」についても様々な意見があるが、事の本質がわかっていないなあと、これもまた哀れになってくる。

今後、今まで以上に世のため、人のためになれるよう、ますます勉強に拍車をかけて行かなければならないと自分に言い聞かせているが、まだまだ志半ばだし、「日暮れてなお道は遠い」という感覚だが、心血を注いで奮励していきたいと思っている。

日本再生へ向けて、春以降、新しいネットワークを立ち上げるつもりだが、準備が少しずつ進んでいる。私の人生を賭けた戦いになるのかもしれないが、着実にまた時には派手に車輪を回し、今回の人生の轍(わだち)を残したいと考えている。
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by sakura4987 | 2006-06-23 13:54

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