◆「役に立たない学問」を大切にする精神が失われた国家は衰退しかない
「産学連携のどこが問題か」
藤原正彦 (お茶の水女子大学教授)
■≪大学の独立行政法人化で何が起きたか ≫
二〇〇四年(平成一六年)に国立大学が独立行政法人となった。公務員削減という財政的理由によりなされたこの改革だが、いくつかの問題は抱えているものの、大きな悪影響もあるまい、と当初は考えられた。
ところが実施直前になって、それまで「予算は減らさない」と断言していた文科省が一転、「毎年一パーセントずつ減らす」と通告してきた。これが今、多くの国立大学をなかばパニックにおとし入れている。
研究教育機関である大学に節約すべき冗費はほとんど見当たらない。自らの月給をカットするだけの胆力は無論ない。かといって増収のための授業料値上げも認められていない。
金繰りのことなど考えたこともない大学にとって、この予算減への対抗策は大きく二つしかない。一つは人員削減で、もう一つは産学連携などによる外部資金の導入である。
実際この二つが両輪となって、現在、大学改造が進んでいる。端的に言うと、外部資金を稼ぎやすい部門を拡充し、そうでない部門を縮減するという政策である。
例えばそのような二部門がある大学の場合、五パーセントの予算減に対抗するのに、外部資金を獲得しそうな部門は一〇パーセントの人員増で充実させ、獲得しそうもない部門は二〇パーセントの人員減といった具合である。
医薬農工などには陽が当たるが、哲学科、国文学科、数学科、天文学科などが企業と連携するチャンスはほぼないから、これらは日陰に追いやられる。
このままでは役に立つ学問が栄え、役に立たない学問が凋落する、という図式が定着しそうである。
■≪教育にまで口をはさむ経済界の不見識 ≫
このような動きの背景には経済界の意向がある。国立大学法人化の少し前から産業界は、大学に対し産業界ですぐに役立つ人材を育成せよ、としきりに言っていた。
不況になって以来、有用な人間を自ら育てる、という余裕を失った企業にとって、欲しいのは即戦力であり、学問だとか教養は無用のものである。
彼等の物言いは大学に対してだけではない。小学校で起業家精神を育てるような教育をせよ、中高生に金融の仕組みを教え、コンピュータを用いた株式取引や企業経営を体験させよ、とまで言う。
大学には産学協同開発や技術移転の円滑化、アメリカ型ビジネススクールやロースクールの開設などを促し、学生には実社会を知るということでインターンシップ(企業研修)を勧める。
小学生に英語やパソコンを教えろ、などと言い出した人々の多くも彼等であった。
不況克服のためなら何でもする、というのが経済界の基本姿勢である。そのためか、あたかも不況に対する自らの責任を糊塗し転嫁させようとするかのごとく、思いつきだけで政治、経済、社会に口を出し、ついには教育にまで口をはさむ。
たかが経済のために日本を改造までしようとする経済人の不見識には呆れるばかりである。すぐに役に立つことばかりを求める、という彼等の近視眼こそが、このしぶとい不況からの脱出を難しくしていることに気付かない。
彼等はもっともらしい理由をつけたうえ、やはり近視眼となっている経産省や金融庁などと一緒になって提案してくるから、文科省はひとたまりもなく首をたてにふってしまう。
大学の方も、産学提携などと聞くと、もともと研究費不足に悩んでいたうえ、法人化後はそれが一層加速されているから、すぐに乗ってしまう。大学自身が、金づるとあらば何にでも飛びつく、という卑しい体質になっている。
ひと昔前までの大学人にあった、学問の自由などという気概はとうに失われてしまっているから、この風潮に一層拍車がかかる。産学連携が悪いのではない。ゆゆしき問題は役に立つことばかりが重視されるということである。
■≪基礎科学の発展なくして科学技術大国なし ≫
歴史を振り返ると、数学とか物理のような、一見何の役にも立たない基礎科学を発展させた国だけが、科学技術大国となっている。
例えば産業革命をなしとげヴィクトリア時代の繁栄を築いたイギリスには、ニュートン、フックからファラデー、ハミルトン、マクスウェルと続く数学・物理の発展があった。
その後を継いだ第二次大戦までのドイツは、ガウス、リーマンからヒルベルト、ハイゼンベルク、ワイルと数学・物理における世界の追随を許さぬ中心であった。
戦後の技術大国としての米ソ日も数学や物理の研究は強力であった。
我が国は戦後、理学系だけで九名のノーベル賞受賞者を出している。公正な選考がなされていたら、恐らくこの数字は倍になったであろう。数学部門にノーベル賞があったらここだけで二〇は堅いだろう。
このような基礎体力があったからこそ応用技術が花開いた。アメリカにおける我が国企業の特許所有は、一九九〇年で二〇パーセント、二〇〇〇年で二九パーセントと目覚ましい数字になっている。
ニュートリノでノーベル賞に輝いた小柴教授の実験は、もしうまく行かなければ数十億の無駄使いとなるところであった。幸運にも成功したが、それでもこの発見の実用価値は今のところ皆無である。
基礎科学とはかくのごとく「壮大な無駄使い」と紙一重なのである。そして目先の実利や損得にとらわれず、このような無駄使いを惜しまぬ国家にこそ、人類への貢献という栄誉が与えられ、それがとりもなおさず国家の品格となるのである。
また、このような大発見の栄光とかそれに対する国民的賞讃こそが、少年少女の心に科学への興味や夢をふくらませ、ひいては科学技術大国への道を拓く。
下流における豊かな水の流れは、豊かな上流があってこそなのである。
逆にかつてのブラジルのごとく、もっぱら役に立つ分野に力を入れ、工業的に急発展している国々は現在も見られるが、これらの国々が近い将来に技術大国や経済大国となる見込みはないと断言できる。
技術導入をしている間はよいが、そのような国では画期的技術が開発される可能性が極めて低いから、好調が長続きはしないのである。
■≪天才が特定の国や地方から頻出するわけ ≫
以前、数学の天才がどんな地で生まれたかを調べたことがある。天才とは、人口に比例して出現するものではなかった。特定の国とか特定の地方から頻出している。
数学の天才を生む土壌には三つの特徴がある。
第一は美の存在である。
美しい自然も芸術もないような土地から天才は生まれない。
第二は何かにひざまずく心が人々にあることである。
ひざまずく対象は神でも仏でも自然でもよい。人間を超えた存在なら何でもよい。現代イギリスのごとく伝統にひざまずく場合もある。
第三は役に立たないことを大事にする心である。
物質とか金銭より精神を上位におくという心の形である。
これら三つの特徴を考えると、天才数学者を生む土壌が文学や芸術での天才を生む土壌と似ていることに気付く。
先に技術大国の例として挙げた国々が、数学や物理ばかりでなく、文学や芸術においても素晴らしいことが当然に思えてくる。
我が国もこれまで、数学ばかりでなく、文学や芸術でも多くの天才を生んできた。日本には、美しい田園とそこから生まれた美しい情緒があった。
ひざまずく心にかけては、江戸時代からのお伊勢詣りや善光寺詣りの国民的人気を考えても明らかである。また、金や物を下に見る武士道精神もあった。だからこそ紫式部や芭蕉のような幾世紀に一人の天才が生まれた。
この日本に変調が起きている。天才を生むための土壌が急速に崩壊しつつある。特に重要な第三の条件、「役に立たないことを大事にする」という高邁な精神が、市場原理の進展とともに物質主義や金銭崇拝にとって代わられている。
大学では、自由な発想でじっくり雄大な研究をする、という本来のあり方が成果主義に駆逐されつつある。産学連携のもたらした嵐にみまわれ、「役に立たない学問」は人員減で意気消沈している。
ポスト減の意味するところは、「役に立たない学問」を目指す若者がいなくなるということである。
人の何倍も才能のある若者が、人の何倍も努力してやっと博士号を取得した時に、就職先がないからである。これでは川上が枯渇してしまう。すなわち科学技術大国は夢物語となる。
より恐ろしいのは、子供達までもが、「本なんか読んで何の役に立つの」とか「数学なんか勉強して何の役に立つの」などと質問することである。有用性ばかりを問う世の風潮が影響しているのだろう。
子供が「勉強をして何の役に立つのか」などと問う国の将来は限りなく暗い。民族の堕落を明示しているからである。