◆【断】天皇制と国家意志 (産経 06/8/2)
先月二十日、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に昭和天皇が不快感を示したとする当時の宮内庁長官のメモが公表され、大きな衝撃とともにさまざまな議論を呼び起こしている。
しかし、管見の範囲では、どの議論もそれまでの自説持論を衝撃から守ろうとするものばかりで、大事なことを論じようとしていない。大事なこととは、国家意志と天皇制の整合性の問題である。
A級戦犯となったのは、普通の意味での犯罪者ではなく、国家意志の遂行者・体現者である。だからこそ戦勝国がその首を求めたのだ。A級戦犯は日本国のために日本国を代表して命を投げ出した。
個々のA級戦犯の人物・能力への評価はいろいろありうるが、それがどうであろうと、国家意志の遂行者・体現者だという位置づけは揺るがない。それを天皇が否(いな)んだということは、国家と天皇との間には、普段は見えないが、本質的な乖離(かいり)があるということである。
近代国家でなければ、こうした乖離は生じない。近代国家においては、国家が天皇を裏切り、天皇が国家を見限ることがありうる。二・二六事件にもこうした乖離がうかがえるし、三島由紀夫は『英霊の声』で「などてすめろぎはひととなりたまいし」と怨言している。
最近の天皇制議論といえば、まるで芸能誌の管轄のように思われてきた。それを親しまれる皇室論として許容してきた保守派は、国家像の再構築に迫られているのだ。
もっとも、一番情けないのは、このメモを振りかざして靖国批判をしている革新派である。天皇の発言に依拠して革新世論を盛り上げてどうするの。自前の理論はないのか。 (評論家・呉智英)