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◆【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(1)地下壕…声なき慟哭 (産経 06/8/8)


 (写真) 島内に残された大砲。地引さん(左)ら遺族収集のメンバーは、61年前の激烈な戦闘に思いをはせた=東京都小笠原村の硫黄島

 東京から1250キロ。自衛隊の輸送機から硫黄島(東京都小笠原村)に降り立った拓殖大4年、地引亮(22)=茨城県=は、自らに課した使命を、改めて心の中で反芻(はんすう)していた。

 わずか22平方キロメートルの小島で昭和20年、日米両軍が壮絶な戦闘を繰り広げた。日本側死者の約6割にあたる1万3000人は、いまなお、この地に眠る。地引は6~7月、政府が実施した「戦没者遺骨収集」のメンバーとして訪れていた。

 岩がむき出しの荒れ果てた島をイメージしていたが、案外緑も多い。少し驚いていると、収集に何度も参加している70代の遺族が教えてくれた。

 「多数の日本兵の遺体からでる死臭を消すために、米軍が空からギンネムの種をまいたんだ」

 海に面した岩という岩には、無数の弾痕が残っていた。少し奥地に入ると、道端には慰霊碑が立ち並び、さびた大砲や機関銃が空を見つめている。地引は、人々のたどった過酷な運命を、思わずにはいられなかった。

 昭和59年生まれの地引にとって、戦争は、同世代の多くの若者と同じく「現実味がない」過去のものにすぎなかった。しかし、大学に入って戦争に関する書物に触れたことや、同じ学生寮の先輩に誘われたことがきっかけとなり、3年前、沖縄での遺骨収集に初めて参加した。

 ジャングルで土を掘っていて、偶然、茶色っぽい塊を手に取った。歯が並んだ人間のあごの骨-。思わず声をあげて手を離した。だが次の瞬間、こう感じた。

 「国のために亡くなった人たちが今でも放置されている。同じ日本人として、故郷に帰してあげたい」

 硫黄島では激しい戦闘で埋葬の余裕さえなく、たくさんの遺骨が、日本軍が掘った全長18キロに及ぶ地下壕内(ごうない)などに放置されたままになっている。地形の変化や情報不足などもあり、時とともに困難さが増している。

 連日30度を超す炎天下。木が刈り取られ、周囲に日陰がない中、地引らは自衛隊員が壕内で掘り出した土を運び出したり、遺骨や遺留品を選別したりする作業を黙々と続けた。

 壕の壁には兵士たちのツルハシの跡がびっしりと残る。激しい飢えと乾きの中、日本兵は、持久戦に備えてひたすら壕を掘り続けたのだろう。

 運び出した土の中から、薬ビンや小銭、多くの銃弾や手榴弾(しゅりゅうだん)とともに、部隊名が書かれた氏名入りの布袋の切れ端もみつかった。当時の兵士の息づかいや苦しみが伝わってくる。

 自分が生まれるはるか40年も前にここで力尽き、家族のもとに帰れない兵士たち。

 「過酷な戦闘で亡くなった人たちがいる。そして今も迎えを待っている…」

 作業を終えると、夜空には無数の星が現れる。星が美しく輝くほど、兵士たちの慟哭(どうこく)が聞こえるようだった。=敬称略(池田祥子)

          ◇

 書物や映画の製作で、改めて注目を集める硫黄島には、いまだ多くの遺骨が眠ったままだ。戦没者は何を語り、遺族や生還者は何を思うのか。島に残された記憶から、戦後61年をたどる。

          ◇

【用語解説】硫黄島戦

 第2次大戦で、日米双方にとって戦略的に重要拠点だった同島をめぐり、両軍計約10万の兵士が昭和20年2~3月に繰り広げた戦闘。栗林忠道中将が総指揮官を務める日本軍は地下壕での持久戦に持ち込もうとしたが、米軍上陸から26日後の同年3月17日、栗林中将が大本営に決別の電文を打電し、総攻撃をかけて玉砕した。死者は日本側約2万1900人に対し、米側約6800人。



◆【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(2)「おやじ、また来るで」 (産経 06/8/9)

 (写真) 壕内から見つかったガスマスクなどの遺留品。当時の過酷な状況を今に伝えている=東京都小笠原村の硫黄島

 父が戦死したのは36歳のとき。井上忠二(72)=広島県=が生きた年月は、その倍になった。「おやじ、また来たで」。政府が実施した今年の硫黄島戦没者遺骨収集。井上は昭和46年に初めて島を訪れて以来、もう30回ほどになる。

 井上と4人の妹を女手ひとつで育て上げた母が亡くなってからも40年近くが過ぎた。「お父さんのところに行って、私が死んだことを伝えて」。母の言葉が背中を押す。

 ジャングルに分け入り、歩き続ける。小高い場所で周囲を見回し、「どこに壕(ごう)を掘るだろうか」と思いをめぐらす。丘には陣地や銃座があり、逃げるための避難壕や退避壕が必ず近くにあるはずだからだ。「硫黄島の遺骨収集は、地形を見にゃ始まらん」

 その井上も初めてここを訪れたときは方角もわからなかった。「父はどこで死んだのでしょうか」と尋ねると、同行の生還者に言われた。「わからんよ。この島は、全島が墓場なんだから」

 井上は残された本や資料を手当たり次第に探した。19年9月作成という硫黄島職員名簿には、少尉以上の名前だけが記載され、1等兵だった父の名前はなかった。「末端の兵士たちは、人間として扱われなかったのか」。怒りがこみ上げた。

                 ■□■

 20年2月、サイパンまで進撃していた米軍は、そこから日本本土までのほぼ中間に位置する硫黄島に上陸した。日本軍は全長18キロにも及ぶ地下壕をつくって抗戦したが、36日間の攻防の末に玉砕した。

 戦没者は2万1900人。遺骨収集は26年に初めて行われ、島が本土復帰した43年の2回目以降は、ほぼ毎年実施されている。

 ただ、状況は厳しくなる一方だ。飛行場建設などによる地形の変化に加え、情報も年々乏しくなる。日本軍の地下壕も、米軍に入り口がふさがれた場所が多く、60年から62年にかけて各年300を超えた遺骨収集数は、ここ5年間は年34~84人分にとどまっている。

                 ■□■

 火山島特有の壁もある。地下壕の現場作業では、掘るたびに地熱が上がり、内部が50度以上になることもざらだ。靴底が溶けることもある。

 酸欠、硫黄ガスなどで生命の危険に何度もさらされた。それでも、参加者同士、壕に入る順を争ったこともある。「過酷な状況だからこそ、一刻も早く連れ出したい」という思いだ。

 井上は61年、父がいたらしい地下壕をようやく特定できた。部隊名を記した書類が残されていた。しかし見つかったのは1人の遺骨。井上は、父たちがどこかに移動して戦死したと考えている。

 井上も年齢には逆らえない。連日の調査は体にこたえ、体中に何枚も湿布を張って作業を続ける。硫黄島を訪れる以外に父と「出会う」方法はない。

 自衛隊の基地になった硫黄島は、遺族でも自由に訪れることはできない。井上は今回も、ほかの遺族らに頼まれて多数の墓標を写真に収め、手を合わせた。

 「おやじ、また来るで」。今回もまた、次への誓いとなった。


◆【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(3)「何よりも水がほしくて」 (産経 06/8/10)

 (写真) 壕の中から発見された遺留品の目薬の空き瓶や硬貨。瓶はわずかな飲料水をためるためにも使われたとみられる

 硫黄島で戦死者の遺骨が発見されると、遺族らはまず真水を供える。

 兵士らを苦しめたのは、米軍との激闘だけでなく、地下壕の掘削作業と飲み水不足だった。「食べ物もなかったが、何よりも水が欲しくてね」。生還者の1人、川相昌一(88)=広島県=はしみじみ語る。

 「3日間も水を飲まんと、のどが渇いてね。水が飲めれば死んでもええと思った」。川相は雨水をためた水槽に手を突っ込み、ありったけの水をむさぼり飲んだ。

 島では、遺留品として今もさまざまな瓶が見つかる。当時、兵士たちは雨が降ると、一斉に瓶を持ち出して水をためた。

 真水がない島。井戸水には硫黄分が混じっており、慢性的な腹痛に悩まされた。遺骨収集で大量に見つかった兵士のカルテには、どれも「不衛生による慢性下痢症」と書かれていた。

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 〈全部隊2万2933人、生還者1033人。生還率4・5%-〉

 昭和20年2月16日、米軍の一斉攻撃で始まった硫黄島戦。灼熱(しゃくねつ)のもと、島内ではあちこちで、兵士たちがふんどし姿になって壕の中を掘削していた。19年夏に通信分隊長として上陸した川相も島北部の兵団司令部壕の近くに、3人の部下と壕を掘った。

 耐え難いつらさに、米軍上陸の報を聞いたある部隊の兵士は「中隊長、これでやっと楽になれますね」と語ったという。

 米軍に島をほぼ制圧された20年3月17日、総指揮官の中将、栗林忠道は決断を下す。壕を出ての総攻撃-。大本営に決別の電報を打った。

 川相は、ほかの兵士と残るよう指示を受けた。司令部壕を訪れると、遠くで栗林が参謀らと別れの杯を交わしている。「おまえも飲め」。近づいた同郷の中尉が、飯盒(はんごう)のふたに貴重な酒を注いだ。川相は必死に同行を訴えたが、中尉は「ここに残れ、命令だ」と指示し戦死した。

□ □

 硫黄島戦で捕虜となった川相は米本土などの収容所を転々とし、21年1月に帰国。故郷には自分の墓が建っていた。「帰ってからもいろんなことがありすぎて…。硫黄島に顔を向けんとずっと生きていこうと思った」。

 だが、硫黄島の遺骨収集が再開されると、戦地で肉親を失った遺族らから、収集への同行や情報提供を相次いで懇願された。川相は「生きて帰ってきた私の義務だ」と決意した。40年代、20数年ぶりに訪れた島の姿はまったく変わっていた。

 山や谷は戦後、米軍によってほぼ平地にされていた。「硫黄島の兵士は穴掘りしかしていないから、自分たちのいた場所しか知らん」。壕を探す手がかりは米軍が入り口をふさぐために仕掛けた爆薬の導火線跡だった。

 以降、20回以上にわたり遺骨収集に参加したが、心身ともに打ちのめされて亡くなっていった戦友たちのことが、頭から離れることはない。戦いから61年、生還した1033人の多くもこの世を去った。=文中敬称略(池田祥子)






◆【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(4)「望郷」かなわぬ思い (産経 06/8/11)

 (写真) 美しく咲き誇るハイビスカスの傍らに残された機関銃。島が置かれたかつての状況を、如実に物語る=東京都小笠原村

 今年の政府遺骨収集で4回目の参加となった奥山紀久子(65)=東京都=は、海岸沿いの地下壕の中から運び出された土をくま手でかき分けていた手を止めた。「これ遺骨じゃないかしら」。赤茶色に変色した小さな塊を強い日差しにかざした。

 硫黄島は奥山が4歳まで暮らした故郷。8人兄弟の6番目で、父は漁業、母は農業を営んでいた。60余年前の現地徴用で、奥山の家では16歳だった二男の兄が島に残った。父が残るはずだったが、「父さんは家族を養って」と自ら志願した。兄は軍の炊事当番を手伝い、戦死した。

 「どの遺骨も兄のものだと思っている」。そう胸に刻む奥山は手にした小さな遺骨に静かに祈りをささげた。

                  ◆◇◆

 硫黄島が日本領土に編入されたのは明治24年。住民たちは漁業や硫黄の採鉱、サトウキビの栽培などで生計を立てた。

 第二次大戦末期、米軍は、日本本土への空爆の拠点などとして硫黄島を重視した。対して、大本営が硫黄島の守備隊に求めたのは沖縄と同様、本土への空襲を少しでも遅らせるための“盾”としての役割だったともいわれている。

 戦争が激化した昭和19年、島に暮らしていた216戸、1004人は、現地徴用された青年らを除いて全員が本土へ強制疎開させられ、島は戦場となった。軍属となった青年103人のうち、約8割の82人は戦死した。

 戦争が終わり、米軍の統治後、本土復帰したのは昭和43年。その後も自衛隊の基地が置かれている。旧島民らがいつでも島を自由に訪れられるというわけではない。

                  ◆◇◆

 奥山が戦後初めて島を訪れたのは平成8年。52年ぶりの帰郷だった。第一印象は「なんて平らな島なんだろう」。

 島は風が吹くと硫黄の臭気が漂い、地下からの蒸気が激しく噴き出す。活発な火山活動は続き、今も年間約30センチずつ隆起している。

 「だけど、植物だってちゃんと育つ。こんないいところはないと思うわ。やっぱり故郷だからかもしれないね」。美しい海とともに、島をいっぺんに気に入った。「難しいと思うけれど、帰してもらえるなら、やっぱり住みたい」と感じた。

 望郷の念は、硫黄島の旧島民たち多くの共通の思いでもある。旧島民は戦後、帰郷を願って、疎開先から同じ小笠原諸島の父島に集結してきた。昭和50年ごろ、「小笠原在住硫黄島旧島民の会」が結成され、平成10年からは遺骨収集に会として参加するようになった。

 「故郷がないことは、悲しいことですよ」。3代目会長、岡本良晴(73)=東京都=はしみじみ語る。「国内にあるのに、硫黄島は戦没者の半分の遺骨も収集できていない」。無念の思いがいまなお尽きない。

 「遺骨収集が終わったと思われる場所でも遺骨が出てくる場合がある。これからも亡くなった人たちの遺骨を集めていきたい」と岡本。旧島民の帰郷とともに、大きな願いとなっている。=文中敬称略


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◆【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(5)慰霊…今に問う屍 (産経 8/12)

 (写真) 日本戦没将兵慰霊碑に手を合わせる遺骨収集団のメンバー。御霊が安らかに眠ることを祈った=東京都小笠原村の硫黄島


 日米が激しい戦闘を繰り広げた硫黄島南端の摺鉢(すりばち)山。第二次大戦で最も有名な写真のひとつとされ、米アーリントン国立墓地前の海兵隊記念碑のもとにもなった星条旗を立てる米兵たちの写真は、この山の頂で撮影されたという。

 「摺鉢山はどこだ」。島に訓練で降り立つ米兵たちは必ずといっていいほど在島の自衛隊員に尋ねる。山頂の米軍上陸記念碑の傍らには、訪れた米兵の認識票が無数に残る。6821人の死者、2万1865人の負傷者を出した米国にとっても、この島は日本側と同様、多くの犠牲を払った忘れ得ぬ地だ。

 現在米国では日米双方の視点で描いた2本の硫黄島戦の映画がクリント・イーストウッド監督によって制作されている。国内でも総指揮官だった中将、栗林忠道の人物像を描いた『散るぞ悲しき』が昨夏出版され、7月に10万部を突破した。

                  ◇

 「栗林は家族に支えられていた。兵士たちも戦場で故郷の家族に支えられ、家族とともに戦っていた」。

 『散るぞ-』の作者でノンフィクション作家の梯(かけはし)久美子(44)は栗林らの足跡をたどる中でそう感じていた。

 「劣悪な状況で見捨てられても腐らずあきらめず、できることを最後までやった人。どんな状況でも人間は人間らしく、高潔に生きられるんだと感じた」

 硫黄島戦の遺族の中には「栗林だけが戦った島じゃない」との反発もある。「けれど、大本営への決別電報をみても栗林は部下の将兵が悲惨な場所でいかに戦ったかを伝えることも指揮官の役割と考えていたと思う」。梯はそう感じている。

 作品を書く直前の平成16年12月、梯は初めて島を訪れた。降り立った瞬間、「島に眠る1万3000人の遺骨を踏んだ」と感じた。

 「私たちは関係ないように過去を切り捨てて前だけを見て生きてきたが、あの時代と今は地続きだった。慰霊とはどういうことなのかと今も考えさせられている」。作品は梯自身にとっても「戦争」を見つめ直すきっかけとなった。

                  ◇

 硫黄島戦が注目を浴びる一方、政府の遺骨収集事業は硫黄島に限らず、3年後をめどに打ち切りが示唆され、岐路に立たされている。

 「死ぬか生きるかの苦労で、涙と汗にまみれたわれわれの遺骨収集の歴史は一言では語れないよ」。日本遺族会監事の永澤庄一郎(75)=宮城県=はそう語る。

 「すべての遺骨を迎えたい」。永澤の心からの気持ちだが、過去の収集数からみると、200年はかかる計算。「ならば、せめて行きたくても行けない大多数の遺族が墓参できるようにしてほしい」。遺族でも自由に訪れることのできない島について、永澤は墓参の回数を増やすよう政府に要請している。

 「日本国民が諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷(もくとう)をささげる日が、いつか来るであろう。安んじて国に殉ずべし」

 栗林が最後の出撃に際し、兵士らに訓示した言葉だ。あれから61年。島には今も多くの兵士たちの屍(しかばね)が残されたままだ。
by sakura4987 | 2006-08-12 15:06

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