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◆真の保守主義に必要なものは何か 精神の崩壊を招く「崇高」の喪失 (産経 06/9/5)


文芸批評家・都留文科大学教授の新保祐司氏(撮影・奈須稔)

 ≪むしろ美重んじる日本人≫

 保守主義の聖典ともいわれる『フランス革命についての省察』は、18世紀英国の政治家・政治思想家エドマンド・バークの代表作である。

 1789年7月14日に起こったフランス革命に対して、すぐさま徹底的な批判を加えたものであり、政治思想における保守主義の最初かつ最高の表現とされている。

 この論文を、バークは51歳のときに執筆したが、28歳の青年のとき、もう一つの代表作である『崇高と美の観念の起源』と題した美学論文を出版した。

 この作品が画期的だったのは、崇高という観念を、美と対比して強調したことである。

 美が均斉、秩序、調和、快などにもとづくのに対して、崇高は、雄大、悲劇、畏怖(いふ)、高揚などに関係している。

 美は人間の尺度の中に収まっているが、崇高は、人間を超えたものに起源をもっている。

 まもなくフランス革命が起きることになる近代の激動期に、均斉、調和の古典主義的美学を乗り越えようとして、バークは崇高を唱えた訳だが、私が興味深く思うのは、一見、たんに秩序、調和を重んじそうな保守主義というものは、実は崇高の観念に支えられていなければならないのではないかという点である。

 翻って思うに、日本人はどちらかというと美の民族である。

 NHK教育テレビで、「美の壼」という番組をやっているが、とりあげられるものは、焼き物、表具、根付、風鈴といった「美的な、余りに美的な」ものであり、不安きわまりない現代に生きていて、このような小さなものたちに心の安らぎを求める気持ちも理解できないではないが、これらに崇高の感覚は乏しい。


 ≪戦争は悲惨ではなく悲劇≫

 例えば、広島の原爆ドームは美しくはない。あれは、崇高なのである。歴史の悲劇がそこにあるからである。

 今、このドームの近くに高層ビルが建ちつつあり、景観の問題が起きているが、こんなことになるのも、原爆ドームの崇高さを身に迫って感じられなくなっているからではないか。

 この崇高の感覚がなければ、真の保守主義は成り立たないに違いない。歴史は本来、崇高なものだからである。

 崇高の感覚が希薄な「戦後民主主義的な」精神風土の中では、大東亜戦争はたんに悲惨な歴史になってしまう。悲惨ではなく悲劇なのである。悲惨は、崇高な感覚があってはじめて、悲劇となる。

 小林秀雄は、昭和21年1月のある座談会で、次のような発言をした。戦後、最初の発言である。

 「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙つて処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終わつた時には、必ず若(も)しかくかくだつたら事変は起らなかつたらう。

 事変はこんな風にはならなかつたらうといふ議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐(ふくしゅう)だ。はかない復讐だ。

 この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起つたか、それさえなければ起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度(めでた)い歴史観は持てないよ。

 僕は歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考へてゐる。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧(りこう)な奴はたんと反省してみるがいゝぢやないか。」


 ≪汚れたのは景観より精神≫

 これは、当時「放言」ととられたものだが、戦後61年目の今日読み直してみれば、実にまともな発言である。

 「悧巧な奴」は、現在でもまだ「たんと反省して」いる。厚かましくも歴史をいじくりまわしている。

 「歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考へてゐる」小林は、歴史の崇高性を感じ取っているのである。そして、「政治と文学」という文章の中では、自らの発言に触れて、大東亜戦争で日本人は「正銘の悲劇を演じたのである。」と書いている。

 憲法にしても、教育基本法にしても、さらには靖国問題、皇室問題にしても、この崇高の観念に深く根差さなければ、垂直性をもってしっかりと立つことはできないのではないか。

 久しぶりに再来日した外国人が異口同音にいうことは、日本は汚くなったということである。これは、景観などの物質的なものだけではなく、精神の崩壊も指しているのであろう。

 そうなってしまった日本を「美しい国へ」修正するのは当然必要だが、さらに崇高な感覚が不可欠であろう。
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by sakura4987 | 2006-09-05 07:27

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