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◆父の15年戦争(12)全体主義者橋本欣五郎 (JANJAN 06/10/16)

http://www.janjan.jp/living/0610/0610152767/1.php

わしは右翼だった

 「わしは若いころは国粋主義に心酔していて橋本欣五郎の大日本青年党(大日本赤誠会)に入っていた」

 始めて聞く話に私はちょっとショックを受けた。しかしそう言えば、昭和30年代半ばから40年代ごろまでは産経新聞を愛読していたし、それらしき交友関係もあった。父のつき合いは間口が広く来る人拒まずで、私が子供の頃ろくでもない人間や、怪しげな人たちがわが家に出入りしていた。

 思い出すままに挙げると、よく来たのが近所の酔っ払い。闘鶏をする、バクチ打ちも「鶏つぶしてくれ」と、ひねたシャモを抱えてやって来た。品物を仕入れても最後は必ず踏み倒す男とも一緒に商売をしたことがある。

 自称鹿児島県の山持ち(山林地主)の息子と言う東京弁を使うヤマ師もチョコチョコ見かけた。詐欺師、ペテン師、チンピラ、ヤクザ……公安刑事も来た。

 母は父のことを「誰でも彼でもあの人はええ人じゃ、ええ人じゃとすぐ信用する」といつも嘆いていた。けっしてお人よしというわけではないのだが、人から頼みごとをされると断れない。下から持ち上げられると、ころっとだまされる。こんな人間を家族に持つと家は間違いなく貧乏をします。

 閑話休題、そんな人間関係の中で興津ケンペイという人がいた。通称ケンペイ、ケンペイと呼ばれていたので、私は長い間ケンペイが本名だと思っていた。実は戦前陸軍の憲兵隊にいたのでそう呼ばれるようになったという。

 その興津さんは子供だった私にも敬語を使う礼儀正しい堅気のおじさんで、満州事変の立役者、石原莞爾将軍の信奉者だった。

 父は別に石原将軍の思想や日蓮宗に共鳴していたわけでもなかったが、「樋口のお伯父さん(郷敏樹の母の兄)は石原莞爾と陸軍大学のとき住んでいた官舎がちかくで仲が良かった」と言っていたので、興津さんとは話が合ったのだろう。

 その他に榎本さんという物静かな、もと右翼だという人もたまに話をしにきていた。

 戦前陸軍中将であった大伯父樋口季一郎は橋本が国家を改造する目的で陸軍参謀本部の少壮将校を中心に設立した桜会の初期メンバーであり、ハルピン特務機関長や参謀本部第二部長、北方軍軍司令官の経歴がある対ソ戦のエキスパートでもあったが、父・大伯父ともに橋本とは不思議な縁でつながっている。


橋本欣五郎と大日本青年党

 橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)は明治23年(1890年)岡山県岡山市に生まれ、7歳の時福岡県門司市に引っ越しをする。熊本幼年学校を経て明治44年(1911年)陸軍士官学校(第23期生)を卒業後、久留米の野戦砲兵第24連隊付少尉に任官される。大正6年(1917年)陸士卒の一割程度しか入れない難関の陸軍大学に入学をして、語学はフランス語・ロシア語を学んだ。この年は世界を震撼させたロシア革命が起こった年であり、軍事・政治・思想の探究心に燃える橋本に大きな影響を与えたと思われる。

 陸大を卒業後、大正10年(1921年)参謀本部第二部ロシア班に勤務をする。その後ハルピン特務機関勤務を経て大正12年(1923年)満州里(マンチュリ)特務機関長となる。

 昭和2年(1927年)トルコ大使館付武官として勤務するが、そのころトルコでは封建的なオスマン・トルコ帝国が瓦解し、民族主義的な国民革命が達成されつつあった。それを主導したのがトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ(アタチュルク)である。橋本は赴任早々目の当たりにした革命の息吹に感激し、ケマルの熱烈な心酔者となる。

 その後スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーが昭和4年(1929年)2月11日コンスタンチノープル(イスタンブール)に追放されてきたが、まもなくマルマラ海のプリンキボ島に移る。トロツキーはここで4年間過ごすのだが、橋本はその動静を探るため大使館の根本外務書記生をプリンキボ島に常駐させていた。橋本は対ソ情報収集やロシア革命研究の過程で、レーニンと共にトロツキーの革命思想・戦術にも強い影響を受けたようだ。

 橋本は昭和5年(1930年)帰国すると、参謀本部第二部ロシア班長となる。同年10月桜会を結成し、クーデターも視野に入れ、一路国家革新運動にまい進し始める。昭和6年(1931年)「三月事件」を意図するが未遂に終わり9月、満州事変にも暗躍する。10月17日、「十月事件」で検挙されるが、重謹慎20日と罪はほとんど問われず姫路野戦砲兵第10連隊付となる。

 その後橋本は関東軍に転属、ハイラル特務機関長を経て静岡県三島野戦重砲兵第二連隊長となった。昭和11年(1936年)2・26事件が勃発するや、急遽上京した橋本は事態の収拾に奔走するが、決起した将校達は逆賊となり、不本意な橋本は予備役となる。陸軍内の皇道派は粛清され、橋本は軍務を離れたことから、クーデターによる政権奪取をあきらめ、民間からの草の根的全体主義運動を起こそうとした。

 同年10月17日、大日本青年党を創立して統領と称し、「橋本欣五郎宣言」を発表する。橋本は旧態の古臭い右翼のイメージを一新するため、明治神宮での結党式にはモダンな紺のサージの制服を着て、天皇帰一をシンボル化した赤地に白丸を射抜いた党旗「白日赤誠旗」を掲げ臨んだ。

――宣言 世界は今や、唯物的自由主義制度の行詰りにより、茲に一大更新を必要とする歴史的転換期に直面せり。然るに世界各国は、何れも旧国家生活姿態より未だ完全に更生し得ず、其の実力相伯仲し、嶄然他に光被するに足る体制を有する国家なし。

此時代に於て一歩を先んじ、優秀なる国家体制を確立するものは、正に世界に光被するを得べし。惟うに八紘一宇の顕現を国是とする我国は、即時基本然の発揮に依り、国民の全能力を挙げ
天皇に帰一し奉り、物心一如の飛躍的国家体制を確立し、光輝ある世界の道義的指導者たるを要す。右宣言す。――
昭和15年12月31日発行、橋本欣五郎著「革新の必然性」より

 橋本は対外的には親独伊、英米撃滅論者で満州領有など大陸に積極侵出することを主張し、「支那事変」解決のため英国の援蒋ルートを遮断し南進を唱えた。また国内政治では党の使命として、財閥と結託し腐敗した政党政治を否定し、国民総動員を目標とする一国一党の実現を目指した。

 同じころドイツ第三帝国ではヒトラーにより国家と党の統一がなされナチス(国家社会主義労働者党)はドイツ唯一の政党となっていた。ベルサイユ体制の打破を掲げ、第一次大戦での失地回復を目指すヒトラーは世界から驚異の目で見られていた。

 昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋での銃声で戦火が瞬く間に中国全土に広がった。8月、橋本にも召集令状がきた。党活動は著についたばかりではあったが、予備役の建川美次中将に統領代理をたのみ、小倉の野戦重砲兵第十三連隊を率いて出征をする。橋本はそれから1年7ヶ月にわたって中国大陸の戦場で指揮をとった。

 昭和14年(1939年)3月、橋本は内地に帰還し、再び党務に復帰し党勢の拡大に乗り出す。同年11月19日、大日本青年党の第三回党大会は東京日比谷公会堂で開かれたが、そこでの組織方針は田々宮英太郎著「橋本欣五郎一代」によると、議会政治とは一線を画し、組織力を強化し党員を拡大するとして、その対象者は「党の主体勢力は青年勤労者層に在り、依って之を組織の第一対象者とす」とある。

 当時日本は米英に対抗するためナチス・ドイツとファッショ・イタリアに接近を図り、ヒトラーユーゲント(ナチスの青年組織)などが日本に交流のためよく訪れていた。

 ヒトラーユーゲントの代表団は、選ばれた長身・金髪・碧眼の若者達で、見事に統率された集団行動やきびきびした態度振る舞いで日本の青少年たちを魅了した。私は昭和一桁うまれの知人が昭和15年(1940年)ごろ、神戸を訪れたヒトラーユーゲントの代表団を間近に見て、あこがれたことを聞いたことがある。世界は新体制を求めるドイツ・イタリア・日本などで全体主義思想が跳梁跋扈していた。

 橋本は新党の名前をトルコの「青年トルコ党」からヒントを得て大日本青年党と名づけ、組織は青年を中核にした大衆動員で成功したドイツの突撃隊やナチスを参考にしたようだ。

 大日本青年党の勢力は前掲の「橋本欣五郎一代」によると結成時7名から第一回党大会参加者6百名、第二回党大会参加者は1千名になり、橋本が帰還してから初めて開かれた第三回党大会では全国から2千数百名の代表が参加し躍進した。

 昭和15年(1940年)元旦に書かれた「日本の目標」と題された橋本の文章には紀元二千六百年記念事業として10万人の党員獲得を期するとしている。しかし党員対象の若者は兵隊に取られて内地では少なくなっていた。そこで橋本はかつて特務機関員として勤めた古巣である満州の開拓青少年義勇軍に目をつけた。


支那は熟れた肉

 父はどんなきっかけで大日本青年党に入ったのだろうか。
 「満鉄二井訓練所のときだったか南学田(みなみ・がくでん)開拓団に移行した頃だったか、はっきりした時期は忘れてしまったが……昭和15年か16年ごろ勧誘に来た。わしは義勇軍訓練所で加藤完治の農本的国粋主義を叩き込まれたが開拓団で農業を余りやる気が無かった。それで何か面白いことが無いかと思っていたところ青年党のオルグが来た」

 満州にいた活動的な党員は5・15事件や2・26事件の残党が多かったという。
 「2・26事件に連座して処刑された、西田税の部下だった、とくまる曹長と呼ばれる男と一緒に行動をしていたことがある」
 彼らは、満蒙は日本の生命線だとよく言っていたという。
 「満州は日本が切り取って当然だといっていた。その根拠は日清・日露の戦いで満州には10万の英霊が眠っているというものだ。連中は、支那は熟れた肉で西洋列強に切り売りされる前に獲らねばならん。それにはまず北支を征するとも言っていた」 


天皇制社会主義

 大日本青年党は講演会や演説会をひらいて組織を拡大していたという。

 「北の蒙古の町ハイラルから南の港湾都市大連まで橋本大佐の満州縦断講演旅行があったが、わしは一部、大佐の乗る馬の手綱もちとして同行したことがある。各会場は盛況で各種農業団体からの参加者が多く、いろいろな右翼団体がひしめいていた」

 当時の満州は恐慌によって職をなくした農民、労働者、商工業者など、さまざまな人達が一旗上げようとやってきた。

 「自由主義・資本主義は一部の資本家だけが肥太るので反対した。三井・三菱などの財閥、既成政党は敵だった。天皇をいただいた社会主義が良いといっていた。当時社会主義やファシズムはそんなに悪いイメージは無かった。むしろ社会主義の平等は良い。しかしそれだけだとみんなが勝手なことをする。それで天皇が上で重石になるという考え方だ。血統も何千年も続いている由緒あるものだし、とにかくこんなええもん(天皇制)はほかにない、世界中に広めようと無条件で信じていた」

 橋本の論説には社会主義や共産主義を肯定するような考え方はない。しかし対ソ戦の専門家としてロシア革命の研究をしていた橋本には貧困や抑圧が社会主義や共産主義思想に人々を接近させること、その哲学に若者をひきつける魅力があることが分かっていた。

 そこで、社会主義の肯定的イメージを取り込むのに天皇をいただいた社会主義=日本の全体主義=天皇帰一と一般党員に説明していたのではないだろうか。

 天皇帰一、八紘一宇これが大日本青年党の根本だったという。橋本は英米の個人主義、自由主義、資本主義は金儲け第一主義で腐敗した、時代に遅れた制度でファシズムに取って代わられるとみていた。現実にニューヨークの証券取引所に端を発する大恐慌は日本にも昭和恐慌を招き寄せ、庶民は塗炭の苦しみを味わっている。仕事をなくして満州にやってきた人たちには彼の主張は心に響いた。


独伊と結び英国を撃攘せよ

 橋本は南京攻略戦のとき揚子江の上流に逃げる何万人もの中国敗残兵を乗せた船を砲撃して沈めたが、そのとき付近にいた英国軍艦レディーバード号も砲撃して問題になったことがある。橋本は激烈な反英主義者で、トルコ大使館付武官の経歴から大英帝国が中近東で、インドで、世界でいかに勝手気ままに振舞ってきたか良く知っていた。前掲の「革新の必然性」には次のような文章が載っている。

――当面の問題としても支那事変が容易に片付かないのは、端的にいえば、英国が蒋介石の尻押しをしているからだ。ロシアの尻押しなどは高の知れたものだ。現実に、具体的に抗日政権を助け、仏ソ米を誘い入れて、対日包囲網を展開しつつあるのは英国だ。
支那事変解決の第一義、東亜新秩序の要諦は極東から英国勢力を撃攘することにある。こんな自明の理も知らず。何の外交があり得るか。――

 昭和15年(1940年)9月27日、第二次近衛内閣は日独伊三国同盟を結ぶ。続いて10月27日、大政翼賛会の発会式が行われ、日本の政党政治に終わりを告げた。橋本は三国同盟締結の前「仁義道」と題した文章の中で次のように述べている。

――今後の世界は、英米仏ソを根幹とする自由主義的民主主義国家群と日独伊を枢軸とする全体主義国家主義的国家群との二大陣営に分かれるのは不可避の現象であり、既に、その対立は尖鋭な事実として進行中だ。―中略― 独伊の結盟は、日本ではいわゆる仁義に基いている。ヒットラーとムッソリーニは口の先や紙上の約束で共同しているのではない。男と男との仁義によって堅く誓い合っているのだ。

若し独伊のどちらかが仁義外れをやれば英仏蘇連衡の手で独も伊も共に打ちのめされることは明白だ。この両者は嫌應なしに仁義を守って一団となり積極的な体當りの戦法に出るしか途が無い。旧秩序に従うか、新秩序を造り出すか、衰亡か発展か、二途択一の絶対境に立っている。

日本はすでに防共協定の名によってこの仁義仲間に入った。入った以上は仁義を徹底するのが男の道であり、男の生きる道だ。いまさら尻込みする手は無い。日独伊協定は防共に限るとか何とかしみったれたことを言うな。結盟は速やかに政治、経済、文化、軍事の全面にわたり最高度に強化さるべきだ。――
「革新の必然性」より

 橋本の言説は率直で分かりやすい。ヤクザの縄張り争いにも似た列強の抗争、合従連衡はその後の歴史の行方を示している。
 日本はドイツの電撃的な西ヨーロッパ制覇に呼応するように南進をし、英仏蘭の権益を侵し始める。国内では第二次近衛内閣の発足で新体制運動が進み政党は「バスに乗り遅れるな」と次々解散をする。

 昭和15年(1940年)11月3日、橋本は大日本青年党を「思想団体」大日本赤誠会と改変した。大政翼賛会では政治結社の並立を禁止されたからである。橋本は大政翼賛会発会と同時に常任総務となり政治的地歩を固めた。しかし翼賛会が推進した金融資本の支配制限や経済に対する官僚統制の強化は財界が反発してアカといわれ、平沼騏一郎や柳川平助らの観念右翼や皇道派軍人からは幕府とののしられ、危険視された橋本は有馬頼寧や中野正剛らとともに翼賛会を追われる羽目になる。

 軍部をも抑えうる一国一党を目指す、橋本の理想に近づいたかに見える大政翼賛会も政党、観念右翼、財界、官僚らの思惑違いから、内紛が始まり綱領や規約さえ出来ない有様だった。大政翼賛会は橋本の目指すナチス流の一党独裁体制には程遠かった。現人神をいただく天皇制とは大きな矛盾があった。 


転落

 昭和16年(1941年)12月8日、大日本帝国は清水の舞台から飛び降りた。緒戦の大勝利もつかの間、帝国は坂道を転げ落ちてゆく。橋本は開戦を知るや、大日本赤誠会の本部会議を開き次のように述べる。

 「開戦については意見もあるが、すでに戦争が始まった以上、わが会は全力を挙げて聖戦完遂に努力する」。反英米主義者の橋本にしても内心、2大強国を相手にしての開戦は反対であったと思われる。しかし賽は投げられた。

 昭和17年(1942年)4月30日、第21回総選挙(翼賛選挙)で橋本は福岡4区でトップ当選を果たした後、翼賛政治会総務となった。その後代議士会副会長になり昭和19年(1944年)8月、翼賛壮年団本部長に就任するが、そのころになると「大東亜戦争」はもはや聖戦完遂どころか軍事的な敗北が決定的になっていた。同年9月4日、橋本が手塩にかけて育てた大日本赤誠会(大日本青年党)は解散する。主体となる青年はほとんど兵隊に取られ「聖戦」に飲み込まれてしまったのだ。

 昭和20年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を迎える。戦後橋本はA級戦犯として訴追され東京裁判では無期禁固刑を受ける。

 昭和30年(1955年)9月17日、10年の獄中生活を終えて巣鴨拘置所を仮出所した橋本は意気盛んで、翌年アメリカからの「真の独立」を訴えて、参議院選挙全国区に立候補するがあえなく落選。その後国立第一病院に入院する。

 昭和の始めより資本主義・自由主義・民主主義打倒を掲げ、革新右翼の立場で天皇帰一、全体主義運動を先導した、反英米主義者には、「サンフランシスコ体制」で対米従属を選択した戦後日本では活躍の場は無かった。橋本欣五郎は昭和32年(1957年)6月29日、肺がんで死去した。
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by sakura4987 | 2006-10-20 10:23

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