◆【詳説・戦後】第3回 憲法公布 満60歳(3-1)
(産経 06/11/02)
あす3日は日本国憲法が公布されて満60年にあたる。占領下、連合国軍総司令部(GHQ)主導で誕生した現憲法は、その後改正の機運が何度か盛り上がりながら一度も改正されていない。
「詳説・戦後」第3回では、憲法改正に執念を燃やした安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相の足跡をたどるとともに、現憲法を拒否できなかった吉田茂元首相の憲法観について孫の麻生太郎外相に語ってもらった。
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■岸信介元首相…「独立国」へ改憲目指す
憲法改正を「政治スケジュールにのせるべくリーダーシップを発揮する」と明言する安倍首相の祖父、岸信介は日米安全保障条約を改定し、日米同盟の基礎を築いた。だが、昭和62年に90歳で亡くなるまで訴え続けた自主憲法制定の夢は果たせなかった。(敬称略)
≪巣鴨プリズン≫
岸が自主憲法制定を自らのライフワークにしようと決意したのは、戦時中、東条英機内閣の軍需担当の閣僚だったため「A級戦犯」容疑者として収監されていた巣鴨プリズン(拘置所)の中だった。
死を覚悟して入った巣鴨だったが、友人の弁護士、三輪寿壮(のち社会党衆院議員)らから現憲法の制定などの占領政策を断片的ながら聞き、「日本は骨抜きにされてしまう」と危惧(きぐ)する日々が続いた。
戦況が悪化する中、東条首相と対立し、退陣のきっかけをつくったことが大きな理由となって不起訴となり、釈放された岸は占領終了後、政界に復帰。昭和28年暮れ、吉田から自由党憲法調査会長就任を要請される。
岸は憲法改正に慎重とみていた吉田に「私は獄中を通じて新憲法はいかんと考え、憲法改正論者になったが、その私に憲法調査会長をやれとはどういう意味か」と迫った。吉田は「思うようにやったらいい。おれもいまの憲法は気にくわないけれど、あれをのむよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなけりゃならん」と応じたという。
岸が中心となって翌年、自由党の「改正要綱」(日本国憲法改正案要綱並びに説明書)を作成したが、その直後、保守合同の路線の違いから自由党を除名され、改憲派の鳩山一郎政権樹立に動いた。30年11月の保守合同で自民党初代幹事長に就任し、党の基本文書に「憲法の自主的改正」を盛り込んだ。
岸が首相になった昭和32年から約30年間、秘書を務めた堀渉は「岸にとって、憲法改正は最大の政治目標だった。憲法改正の一点で保守合同をまとめあげた」と語る。
≪半世紀前の改正案≫
では岸が中心となってまとめた自由党「改正要綱」とはどんなものだったのか。
自民党は昨年、「新憲法草案」をまとめたが、岸の「改正要綱」と51年後の「新憲法草案」とは類似点も多い。
現行憲法の戦争放棄や平和主義を維持しつつ「軍隊」(改正要綱)、「自衛軍」(新憲法草案)を持つ点や、平和のための国際協力、基本的人権を保障しつつ乱用の防止を求めた点のほか、憲法改正要件の緩和、憲法裁判所の否定-などが似通っている。
その一方、自民党が検討しながらも公明、民主両党に配慮して「新憲法草案」に盛り込むのを見送った“保守らしさ”を「改正要綱」は備えている。
前文に「歴史と伝統の尊重」を盛り込んだほか、天皇を「元首」と規定し、内閣の緊急命令権などの非常事態規定、国民が国防に協力する義務-を明記している。「新憲法草案」が衆参両院の対立を恐れて手を触れなかった参院改革も議員の一部推薦制や間接選挙制の採用を打ち出していた。
≪安保を先行≫
昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。しかし、「日本の独立を守った明治維新の先輩たちの懸命な努力をよく口にしていた」(堀)という岸は、本当の独立国に戻ったとは考えていなかった。
首相になった岸は、32年4月、衆院予算委員会で「日本民族の独立、自由の意思からいわゆる自主憲法を制定すべきであるのが持論だ。9条も含めて自主憲法の制定の際には考えなければならぬ」と答弁した。
しかし、自民党は国会で憲法改正発議に必要な3分の2の議席を持てなかった。まず岸が取りかかったのは、日本防衛の義務を負わない米軍に、内乱の鎮圧まで認めた旧日米安保条約改定だった。
岸が亡くなるまで会長として改憲運動の拠点とした「自主憲法制定国民会議」の専務理事、清原淳平は、晩年の岸から「旧安保条約は不平等条約で日本は属国だった。だから改正したんだ」と聞かされた。「9条をみても独立国の憲法じゃないとわかる」と折に触れ語った岸にとって「憲法改正と安保改定は完全にリンクしていた」(清原)のだ。
≪タブーの時代≫
しかし、激しい安保闘争の結果、岸は安保改定実現と引き換えに退陣。続く池田勇人、実弟の佐藤栄作ら歴代首相は、憲法改正に取り組むことはなく、閣僚が憲法改正を口にすることすらタブーとなっていった。岸が改憲機運の高まりを目指して作った内閣憲法調査会も、39年の池田内閣への最終報告書で、憲法改正を打ち出すことはなかった。
岸にとって晩年は憲法改正運動の「冬の時代」(清原)だった。
自民党の59年度運動方針案から「自主憲法の制定」が削除され、岸が幹事長の田中六助に電話でねじ込んで復活させる一幕もあったが、田中は会見で「自主憲法といってもお経の文句のように木魚をたたいていればいいんじゃないの」という始末だった。
そういった冬の時代でも憲法記念日の早朝、女婿の安倍晋太郎邸で、大会挨拶文を大声で読み上げ、添削する岸の姿があった。岸は58年5月3日、自主憲法制定国民大会で「鳩山、岸内閣の後の内閣はいずれも憲法問題には逃げ腰で、残念でたまらない。若い方々に運動の第一線に立つことをお願いする」と、若い世代への期待を口にするようになった。
岸の死から約20年後、安倍晋三ら「若い世代」が積極的に憲法改正に取り組んでいるのは、決して偶然ではない。
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■日本国憲法の制定過程
連合軍による日本占領が始まった直後の昭和20年10月、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー総司令官は幣原喜重郎首相らに憲法改正の必要性を示唆した。
政府は同月、憲法問題調査委員会を設置し、大日本帝国憲法の諸条項を踏襲した改正要綱を21年2月、GHQに提出した。マッカーサー総司令官は受け入れを拒否、独自の草案をGHQ民政局に作成させた。
GHQは象徴天皇や戦争放棄を盛り込んだマッカーサー草案を10日で完成させた。政府は再考を求め抵抗したが結局、閣議でGHQ草案に沿う政府案作成を決定。
21年3月にGHQとの協議に基づいた改正草案要綱を発表。
5月の吉田茂内閣の発足を経て、憲法改正案を第90回帝国議会に提出した。約4カ月間の審議を経て現憲法は可決成立し、11月3日に公布、22年5月3日に施行された。
吉田氏が終戦連絡中央事務局次長に抜擢し、GHQとの折衝にあたった白洲次郎氏は21年3月の手記で、「斯クノ如クシテ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル 『今に見ていろ』ト云フ気持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス」と記している。