◆【正論】慶応大学教授、弁護士 小林節 正しく理解されない集団的自衛権
(産経 06/11/11)
慶応大学教授・弁護士 小林節(撮影・三好英輔)
■解釈は政治の責任で変更できる
≪憲法は自衛権行使を認む≫
いわゆる「集団的」自衛権の問題を本当に理解できている国民は実際にはほとんどいないのではなかろうか。しかし、世界史の現実の中でわが国の存続にかかわるこの問題を主権者・国民が一般に理解できていないなどということは、本来あってはならない。そこで、改めてここでその問題を整理しておきたい。
まず、わが国は憲法9条の1項で「国際紛争を解決する手段としての『戦争』を放棄」し、次いで2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の『戦力』は…保持しない」と規定している。
しかし「国際紛争を解決する手段としての戦争」が「侵略戦争」のみを意味し「自衛戦争」までは含まない…という国際的慣行、およびわが国も独立主権国家としての自然権(つまり条文の存否にかかわりのない当然の権利)としての自衛権は持っている…という理解を前提に、わが国は自衛隊を創設し、さらに、かつて侵略国として失敗した経験を前提に、それを極めて自制的に用いてきた。
そして、集団的自衛権であるが、それは「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」で、わが国も独立主権国家である以上、国際法上、この権利を有していることは当然であるが、上述のような背景がある憲法9条の下で許される自衛権の行使はわが国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきだと解されているため、集団的自衛権を行使することはその許された範囲を超えるとして、憲法上許されない…とされてきた。以上要するに、わが国は、集団的自衛権は有するが、それを行使することはできない…というのが、従来のわが国の政府解釈である。
≪必要最小限度の実力行使≫
この解釈を前提にして考えると、例えば、公海上でわが国の自衛艦と併走している米国の艦艇が他国から攻撃された場合に、自衛艦が米艦を支援したら、それは集団的自衛になってしまう。また、同じくわが国の上空を飛んで米国に向かう他国のミサイルをわが国が撃ち落としたら、それも集団的自衛になってしまう。しかし、だからといってそのような行動を自制することは政治的に賢明か?という問題が提起されてくる。
伝統的な政府解釈によれば、憲法9条の下で許される自衛のための必要最小限度の実力行使については(1)わが国に対する急迫不正の侵害があり(2)それを排除するために他に適当な手段がなく(3)その実力行使が必要最小限度にとどまる-という3要件が確立している。したがって、この要件に照らす限り、上述の2例のような場合にわが国は傍観せざるを得ないことになる。しかし、それでは現場で米国をいわば見殺しにするのだから、自由と民主主義という基本的価値観を共有する同盟国・米国との信頼関係に傷がついてしまうであろう。
しかし、ここで改めてその障害になっている憲法解釈を直視してみると、まず、憲法条文自体には「集団的自衛」と、(自国が単独で行う)「個別的自衛」の区別などどこにも書かれていない。9条は、単に1項で「戦争」を放棄し、2項で「戦力」の不保持を規定しているだけで、それが、歴史的背景に照らして、侵略戦争の禁止(つまり自衛戦争は可能)と必要最小限度の自衛力の保持と行使は可能…と読まれているだけのことである。
≪世界の現実的情勢で判断≫
また、法令の解釈というものは、解釈権を有する者(この場合は政府)が、その責任において、条文の文言とその立法趣旨の許容限度内で行う「選択」である以上、時代状況の変化の中で、説得力のある理由が明示される限り、変更されてよいものであるし、これまでもそうであった。
だから、世界史の現実と東アジアの情勢の中で、わが国の存続と安全にとって日米同盟の強化が不可欠である、と政府が考えるならば、その責任において、上述の2例のような場合に、仮にわが国に対する直接的な攻撃がなかったとしても、それをわが国が座視すれば日米同盟が損なわれることが明白である以上、仮に形式上は集団的自衛活動になろうとも、わが国の存続に「不可欠」な軍事行動は、それを許容する憲法9条に違反するものではあるまい。
もちろん、日米同盟がわが国にとって死活的に重要だとしても、他方、侵攻の根拠が崩れてしまったイラク戦争にわが国が米軍の友軍として参戦することは憲法9条の精神に明白に違反してしまうことも自明である。