◆【人語り】刑務所で学んだ元衆院議員・山本譲司(44) (産経 06/11/12)
■切なく、悲しく、おかしい
鼻がひん曲がるような悪臭が充満していた。床にこびりついた糞(ふん)尿や吐瀉物が視界に入る。
高齢者や知的障害がある受刑者など処遇困難者を“隔離”した、通称「寮内工場」。70歳を過ぎた老受刑者の舎房に入った瞬間、ショックで動けなかった。
「国会議員時代は福祉問題をライフワークにし、偉そうに論じていた。それなのに、『自分がどこにいて、何をしているのか』も理解できない障害者が刑務所内にいることを知らなかった」。衆院議員のバッジを付けながら、福祉という問題の上っ面だけを見ていたような気がした。
平成12年9月、勤務実態がない人間を政策秘書に採用したように見せかけ、国から秘書給与をだまし取っていたとして、東京地検特捜部に逮捕された。菅直人衆院議員(現民主党代表代行)の秘書や東京都議を経た衆院議員2期目。
政官財の構造汚職だったリクルート事件(平成元年)に憤慨し、「きれいな政治」を目指して政界に乗り込んだはずだった。
「いま振り返ると『権力』に酔っていたのかもしれない。事件は、自分自身の本来の志を喪失し、流されていたことへの警告だった」
懲役1年6月の実刑判決。上級審で実刑を免れる可能性もあったが、妻の出産を待って控訴を取り下げ、黒羽刑務所(栃木県黒羽町)に収監された。
「何でも経験したい」という気持ちもあったが、先輩受刑者の「自分が人間であることを忘れろ」という言葉にショックを受けた。自分を買いかぶっていたことを知った。
◇
「おれね、これまで生きてきたなかで、ここ(刑務所)が一番暮らしやすかった」
障害を持つ受刑者の言葉に、言葉を失った。
刑務所に入るために放火を繰り返す知的障害者は「刑務所は安心。外は緊張する」と言った。家族から邪魔者扱いされ、犯罪に利用される障害者も多くいた。彼らにとっては、自由を制限された刑務所でも「塀の外」よりはマシだった。
刑務所内には、「受刑能力」がないとしか思えない受刑者が多くいた。指導補助として配役された寮内工場では、オムツをつけた障害者の排泄(はいせつ)の世話をし、食事や作業の介助をした。
痴呆(ちほう)の進んだ高齢者や知的障害者の中には、「刑」や「反省」の意味を理解できない受刑者もいた。
「なぜそんな彼らに懲役刑を科すのか」。疑問に思った。調べると、身元引受人がいる障害者は裁判で執行猶予処分になることが多かった。「刑務所が福祉施設の代替施設になっている。障害者は刑務所で『保護』されて生きながらえている」
受刑障害者の多くも「孤立」さえしなければ、刑務所に入ることはなかっただろう。
「刑務所は、社会での生活が立ち行かなくなった人たちの“避難所”かもしれない」
そう思えて仕方がなかった。
◇
仮処分で出所した後も、犯罪にかかわる障害者のことが気になった。障害者福祉施設にスタッフとしてかかわる傍ら、出所した障害者を訪ねて歩き、障害者が被告人となった裁判を傍聴した。
9月には「累犯障害者」(新潮社)を出版。頭には常に、「刑務所が一番暮らしやすい」という受刑者の言葉があった。
障害者年金目当ての暴力団に食い物にされている障害者がいた。ろうあ者だけで構成された暴力団は、同じろうあ者に対して恐喝や詐欺を繰り返していた。手話通訳者とコミュニケーションが取れず、法廷で自分の意見を伝えられないろうあ者もいた。
売春を繰り返す知的障害者の女性は、福祉施設は「規則が厳しい」と言って逃げ出していた。ただ同然の売春を「生きがい」のように喜々として語る女性もいた。福祉施設にいるよりも彼女らが「自由に生きている」とさえ感じた。それが「切ないし、悲しいし、おかしい」。そう思った。
「罪を犯した以上、『障害者だから罰するな』とは思わない。だが、受刑生活をどうするかを考えなければ更正や社会復帰につながらない」
100年近くにわたって受刑者の処遇を縛っていた「監獄法」(明治41年施行)は廃止され、17年5月には「受刑者処遇法」が成立した。受刑者の処遇は矯正教育を重視する方針に変わり、障害者施設でも実習の機会が増えている。
矯正行政のこうした変化を歓迎する一方、「塀の外」の変化も始まらなければならない。出所後に福祉行政と接点を持つことができず、再び罪を犯す障害者は多い。
「出所した障害者を受け入れてくれと頼むと、福祉施設の中には『羊の群れに狼を放つのか』という人もいる。凶悪事件を起こす障害者は、ひと握り。保護行政が機能して障害者と福祉がつながれば、刑務所に入る障害者も減るはずだ」
買い物に一緒に行くなど、出所した障害者の個人的な支援も行っている。「刑務所、暴力団、売春、ホームレスに障害者を追いやる福祉とは何なのか」。この疑問を共有する福祉関係者も出始めている。
433日間の獄中生活。「隔離された空間だったが、人間の“生”を実感した。大学、国会といろいろな所を見てきたが、刑務所は新しい人生の学校だった」
本当のライフワークを知った充実感が、顔に出ていた。