◆【主張】勤労感謝の日 思い返せ日本人の心の形 (産経 06/11/23)
今日は「勤労感謝の日」だ。国民の祝日法によると「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨になっている。
「生産を祝い」という部分に面影を残しているが、実はかつて新嘗(にいなめ)祭として天皇が国民を代表して今年の初穂を神々に供え、その恵みに感謝したのがこの日だった。
新嘗祭は旧暦の11月の2番目の卯の日に行われていたが、明治になって太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されて以降11月23日に固定された。昭和23年、国民の祝日法が施行され、「勤労感謝の日」に改められた。
「勤労をたつとび」「国民たがいに感謝しあう」ことの意義は否定しないが、伝統文化を見えにくくしたことは否めない。
人間の世界では往々「感謝」の念は互いに置き去りにされ、とかく「あんなやつに金輪際感謝などするものか」というふうになりがちだ。
しかし、相手が人知を超えた神々となるとどうだろう。その大いなる霊威に恐懼(きょうく)し、おのずから身を慎む気持ちになるのではないだろうか。
「にひなめ」の「にひ」は、「にへ(贄)」の母音交代形で、神に供えるその年の新穀の意である。
「なめ」は「なへ」からの転で、「(にひ)ノあへ(饗)」がつづまった語形で、天皇が新穀を神と共に食するという意味の語とされる。
民間でも新穀を神に供えて、これを食する行事が行われているところもある。
神と同じものを食するということは神の霊威を分かちいただくことを意味する。1年を通じて、豊作を神に祈り続けエネルギーを使い果たした天皇の霊格が、そのことを通じて再生されるわけだ。
そういう意味からは、新嘗祭は収穫の喜びを祝う行事であるとともに、物忌みの行事であると指摘されることに合点がゆく。
自然の恵みへの感謝の心、つまり「敬い」の心と、身を慎むという「へりくだり」の心と、現代人がその知恵に学ぶところは多い。古代人のこうした考え方を、あながちに時代錯誤として切り捨てていいものではあるまい。
国民の祝日に当たって、表層に現れているものとは別の日本人の精神の形をもう一度思い返してみることも大事なのではないか。