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◆真珠湾への道 日米開戦65年(7) (産経 06/12/07)


ノンフィクション作家・上坂冬子


ノンフィクション作家・上坂冬子(撮影・大山文兄)


 ■時代の趨勢と全体主義の“快感”
 ≪つかみどころなく≫

 あの朝のことは、よく覚えている。

 臨時ニュースの音楽のあと「西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とアナウンスが流れるや、父と母が顔を見合わせた。そのときの何ともいいようのない表情は、両親が世を去って20年たったいまも忘れられない。

 ショックに耐えているというのでもない、困ったというのでもない。いわばつかみどころのない逡巡(しゅんじゅん)の表情とでもいおうか。

 当時、父は40歳、母は34歳、私は小学5年生でわが家は8人きょうだいのほかに母の体内に1人やどっていた。両親は国家を信じきっていたはずだから、やるぞっと決意をあらわしたかったのであろうが、シナ事変の終わらぬうちに、もう1つ戦争が加わって子育てを案じつつ、すぐには決意表明ができなかったのかもしれない。

 福田恆存氏は私の尊敬する数少ない著述家だが真珠湾攻撃のニュースを聞いたとき、「大手柄だ、これでうまくいくぞと思った」と、のちに語っていた(『憲法のすべて』)。当時、福田氏は30歳のはずで、こういう正直な記事を読むと私はホッとする。戦争を知らない人たちの中には、特定の誰かがあのおぞましき開戦に踏み切ったかのようにいい、いまこそ日本人の手でその愚かな人間を罰する必要があるかのようにいいつのる向きがあるが、福田氏でさえ一時的には日本の決断を支持していた時代ではあった。

 ≪引き下がれようか≫

 開戦の日もさることながら、私には開戦の決断の下地つくりを着々と進めていた前年の印象が強い。そのころわが家は奈良で生活していたから、神武天皇以来2600年に当たるとして橿原神宮で盛大な祭典を行ったのを私は目の当たりにしている。ブラジルに移民した人々までが、はるばる「万世一系の皇国」を祝賀するために集まってきていた。

 いまになってヒトラーは人道の敵のごとくいわれているが、昭和15年9月27日に日本はベルリンのヒトラー総統官邸で日独伊三国同盟に調印し、私たちはその2年前にドイツから来日したヒトラー・ユーゲント歓迎の歌を歌いまくった。「ヒトラー・ユーゲント、万歳!ナチス」というメロディーを私はいまでも口ずさめる。当時の新聞には婦選獲得同盟の市川房枝さんが、街頭でムダさがしに当たって「家庭経済戦の勝利」をおさめたとあった。やがてアメリカは「石油の一滴は血の一滴」といわれた日本への石油輸出をやめ、その上でシナから撤退せよというハル・ノートをつきつけた。日本として引き下がれようか。

 真珠湾で戦死した岩佐直治中佐以下9人が軍神といわれたころ、私たち一家は群馬県に移り、女学生の私は勤労奉仕で岩佐家の実家のある村の稲刈りを手伝った。そのあとスパイ防止のために敵性外国人は軽井沢に集められ、父がその管理に当たったので、わが家は長野県に引っ越した。私は学徒動員で中島飛行機や日本無線の工場に通っている。

 ≪戦時の聖なる姿≫

 物資の極端に逼迫(ひっぱく)したなかで日本人は決してみじめな気持ちで暮らしていたわけではない。国家が国民を叱咤(しった)激励、あるいは鼓舞し、その一丸となった姿を聖なるものとするのが戦時体制である。

 「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし、止まむ」と音頭をとりながら、国家も国民も、もちろん10代の私たちも精神主義が原子爆弾という近代科学に敗れるまで、勝利を夢見て神風に期待をかけていた。

 それは一種の“快感”であった。その快感に酔いしれた日本が状況判断を誤って敗れたことはまちがいない。だが、人間の弱さをくすぐるあの快感あるかぎり、この世から戦争はなくなるまい。

 敗戦の思い出として、まず私の頭に浮かぶのは正調「木曾節」である。そのころ私たち一家は木曽の藪原に住んでいた。山の中だから電波が十分届かず、玉音放送を知ったのは夕方である。そして数日後に、正調「木曾節」とともに祭りの山車が村の中をゆっくりと通っていくのを見た。

 いわゆる木曾節とちがって正調はもの悲しいまでに低い響きで、敗戦日本の葬送曲にふさわしいものであった。誰いうともなく戦争が終わったなら祭りだ、となったのであろう。たしか文化人類学者の梅棹忠夫氏が、引き揚げ船に赤ん坊のおむつが翻っていたのを見て日本の復興を信じたと書いていたが、戦後の日本で真っ先に立ち直ったのは庶民の生活感覚であったと私も思っている。

 ≪逡巡認める平静さ≫

 日本の失敗は、そのあと占領政策にひれ伏したことではないか。日本の再軍備をもちかけられた吉田茂首相が、経済的に立ち直ることが先決だとしてこれを拒んだあたりまでは、占領下にあっても日本は自立していたと私は思っている。だが、サンフランシスコ平和条約締結を前にして、東大の南原繁総長がソ連が同意するまで締結すべきではないと、平和に逆らうかのような全面講和にこだわったあたりから日本の足並みが乱れてきた。

 結果として、いわれなき機会均等や運動会で1等、2等を決めるのさえならぬとする悪平等が日本を覆い、その教育精神が次世代を毒して今日に至っている。今年は靖国問題にからんで「死んだら靖国で会おう」といった時代が盛んに取り沙汰されたのは収穫であった。近現代史について手薄だった日本にとって、見落とした時代を論じ直すいいきっかけである。

 とはいえ開戦から65年も過ぎて、手垢(あか)にまみれた固定観念を前提に論じ直すのは無駄な努力というべきだ。たとえば悪名高き戦陣訓を打ち出したのは東条英機陸相だというけれど、当時の教育総本部長は人格者といわれた今村均中将なのだ。日本は独裁国家だったはずはない。一人を責めまくるのは酷だ。

 戦争の最大責任は時の趨勢(すうせい)だ。時の趨勢に度を超した全体主義の快感が加わったとき、抜きさしならぬ状況となって多大な犠牲者がでる。65年前の、両親の何とも名状すべからざるあの表情を思い出しながら、私はあらためて素朴な逡巡をけっ飛ばした全体主義の罪を感じている。

 その意味で、憲法の見直しや非核三原則を“論じ直す”ことの必要が、堂々と口に出せる趨勢は好ましい。65年かかって、日本は逡巡を認める平静さを取り戻したのであろうか。(かみさか ふゆこ)

                    ◇

【用語解説】サンフランシスコ平和条約

 昭和26年9月8日、第二次世界大戦の連合国48カ国との間で調印された対日講和条約。日本の主権回復、朝鮮の独立、台湾、千島列島の領土放棄などを規定している。調印しなかったソ連や出席拒否のインド、招かれなかった中国などとは個別の国交回復交渉に。
by sakura4987 | 2006-12-07 16:22

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