◆「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」 (中西輝政著 PHP新書刊)
第3章 日本人にとっての天皇
-前略-
マッカサーの狙いは明白でした。一九世紀のアメリカ人が、こんなことをいっています。
外国つまり未開地城の王室潰すには三つの方法があろ。
一つは、「戦争で打ち負かす」。
二つは、「民衆に民主主義を吹き込む」。
三つは、「王位継承者を絶やす」こと。
この方法で、ハワイ王室、中南米の王家が、すべて潰されてきたわけです。マッカーサーは、第三の方法、すなわち、皇位継承者の資格者を局限することで皇統の断絶を狙ったわけてす。
実は、この方法はマッカーサ一自身が考えたというよりは、植民地大国イギリスのやり方をまね、アメリカの国益を加味してワシントンが政策化したという方が正しいようです。イギリスとオーストラリアは、ソ連と並んで、日本の皇室廃止を主張する急先鋒でした。
「王様は世界に二人しか必要ない。一人はイギリスの国王、もう一つはトランプのキング」というのがイギリス王室数百年の方針でしたから、征服した国の王は絶対に認めない。ビルマ(現ミヤンマー)でもインドでもアフリカても、全部王室を潰してきました。天皇を残すと、必ず日本は復活をを遂げ、自分たちにとって脅戒となる、と考えたわけです。
では、なぜアメリカはいっぺんに日本の共和国化を図らなかったのでしょうか。それは、当面、占領政策で利用する価値がある、と考えたからです。それは、皇室を廃絶すると日本人はいっぺんに共産主義に走る危険がある。だから、天皇は 「共産主義の抑え」としても使える、と読んだわけです
しかし最後にもう一つ それは、日米戦争の末期、日本敗北は明らかなのに、「国体(天皇)を守れ」を合言葉に日本人は次々と玉砕覚悟で突撃しました アメリカ人から見ると天皇信仰のすごさを、いやと言うほど見せつけられたことが大きかったのです。
「だからこそ、皇室はなくさなければならないのだが、迂闊に廃止するとアメリカは日本人の大反撃をくらう。だから、搦め手(からめて)から、つまり一方で「民主主義を吹き込み」、他方で「皇位継承者を徐々に絶やしてゆく」という戦略をとったのてす。
こうしてアメリカが編み出した作戦が、皇位継承者と皇室財産の両面で追いつめる「立ち枯れ作戦」でしたこの作戦は、今でもボディブローのように効いています。
これを日本人の立場から見ると、「神風特攻隊は間違いなく、皇室を救った」と言えるでしょう。「神風」などの特攻隊だけでなく、「国体護持」を合言葉に勇敢に散っていった硫黄島の軍人や沖縄のひめゆり部隊などの県民、つまり日本人一人の一人の自己犠牲があったからこそ、戦争には負けたが、占領政策に影響を与えることで彼らは立派に国体、つまり天皇を守り抜いたのです。
この点でも、決して無駄死になどではなかったわけです。現代のわれわれは決してこのことを忘れてはなりません。彼らがそうまてして守り抜いたものを、われわれが後世に伝えなくて一体どうするというのでしょうか。天皇制と民主主義の共存共栄の国柄を碓保し、皇位継承者の確保を磐石にすることで、「万世一系」を守り抜くことが大切な課題ではないでしょうか。
一方、ソ連もまた別の角度から「立ち枯れ作戦」を展再しました。日本国憲法第一条がそれです。ただし、前段の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」ではなく、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の部分です。
あまり知られていないことですが、この部分を作成したのははソ連です。アメリカは前段だけで十分と考えていました。「天皇=象徴」としておけは、国家元首でもないし統帥権も待たないのだから脅威は取り除かれる、とアメリカは思っていました。
ところがソ連は違いました。「国民主権」はっきり謳え、と後から猛烈に突っついたのです。アメリカの単独占領だから、ソ連は日本に直接手を出せない そこでモスクワの狙いとして、この象徴として天皇の地位も、国民の主権に基づいているんだ、と明文化しておけば、天皇制はいずれ必ず廃止できる、と考えたのです。
「例えば日本の左翼を使って世論を操作し国民をうまく誘導して「国民の意思だ」と称すると、アメリカの意向を超えて、将来、天皇制そのものを廃止できる、「リモート・コントロール戦略」をスターリンは考えたと思われます。
ちなみに、「天皇制」という言葉そのもを(あくまでも打倒の対象としてでしたが)つくったのはコミンテルン、つまりソ連でした。なぜ、ソ連はそれほどまでに「天皇制廃止」に強い執着を見せたのでしょうか。
それは、一九ニ七年のコミンテルンの日本共産党への指令、「ニ七テーゼ」以来、一貫していた日本革命を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからでした。
日本が「アメリカ陣営」に組み込まれても、「天皇制廃止」だけは必ず実現せねば、というのがスターリンの執念でした。そこから、戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになります。
そもそも、王を戴く国でこれほど正面から 「国民主権」を謳ている国は、まずありません。驚く人がいるかもしれませんが、イギリスはそもそも建前からして、国民主権の国ではないのです。
王と議会が主権を分かち合う国。また他の君主国も、必ず君主を「元首」として日本のように留保なしに 「国民主権」は謳っていません。そんなことをすれば、必ず君主の地位が危うくなるからです。
君主の存在と国民主権は両立しない、というのが世界の常識″だったのです。そこで、吉田茂たちは、「主権の存する日本国民」という部分をなんとか薄めた表現にしようと悪較苦調しました、しかしソ連に動かされていたGHQ民政局の圧力をはね返すことはできませんでしした。
でも、今日よくよく考えると、ソ連の作戦も吉田の抵抗も、ほとんど無駄だったのではないでしょうか。なぜなら、日本の天皇は、もともと世俗的な政治権力者ではなかったからです。むしろ、太古より政 (祭事)の中心的存在として 一 皇室がいかに祭祀にに心を砕かれてきたかについては後で詳述します。
神から委託された存在として、国民の上に君臨してきました。そのことにより、日本文化の、あるいは日本人の心の伝統の中心的存在でありました。
いくら紙の上で 「国民主権」と書いても、日本という国の国柄にしみついた天皇 のこの実態は決して風化するような存在では、もとよりとなかったのです。
それに、大日本帝国憲法下において、たしかに天皇は「元首」として「統治権の総攬者」であり「陸海軍の統帥権」をも有していました。
しかし、同第五五条に「(一)国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ基ノ責二任ス (ニ)凡テ法律勅令其ノ他国務二関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署り要ス」とあるように、左翼の歴史教科書が、「天皇絶対制」とする戦前日本においても、明治・大正・昭和三代の天皇は、まさに 「統治権の総攬者」であるがゆえに、親裁を避けられたのです。
調度、歴代天皇が征夷大将軍に政治軍事を任されたように「国民主権」となることで変容させられたのは、むしろ国民の側です。
一天皇から統治権を委任されたわけてすから、戦後、国民は 「征夷大将軍」に任命されたに等しい責任と義務を負わされてしまったともいえるでしょう。われわれ一人一人が源頼朝や徳川家康になったつもりで、上に天皇を戴いてしっかり政治をもり立てていかなければいけない、ということなのてす。