◆開戦の「苦衷」 (世界日報 06/12/13)
十二月八日が近づく度に、取り出して見る文章がある。
それは、ルポライターの南雅也氏が本紙にお持ちだった「古今東西」欄の平成六年十一月十二付にお書きになった「開戦の決断」というコラムである。
何でも、敗戦直前、怒濤(どとう)の如く押し寄せるソ連戦車群に肉迫攻撃した満州・石塔予備士官学校生中隊の生き残りと仄聞(そくぶん)したが、その後の抑留生活のせいであろう。
私よりお若いのに早くお亡くなりになって、遂に歓談の機を失するに至ったが、氏はそのコラムの冒頭、「戦後の心ない識者の弁に、『日本はなぜ勝ち目のない無謀な戦をしたのか』などいう謗りがある。だが果たしてそうだろうか」と問い、次のような事実を明らかにしておいでになる。
それは、武藤章軍務局長が開戦のひと月前、当時内務次官(のち同大臣)だった湯沢三千男氏に訴えられた、「勝つ見込みはない。だがどうしてもやらねばならぬ」という「胸の苦衷」である。
そして南氏は、昭和三十一年、日本週報社から刊行された湯沢氏の著書から、武藤中将の思いを、こう引用しておられる。
「近世の歴史上、国を挙げて戦って敗れた大国にして再び奮い立たぬ国はない。それは後代の青年が戦時の祖国を追想して、奮起するからである。これに反して戦う気力なく屈服した国は内部より崩壊し、再び大国たり得ない」
「戦うも戦わざるも四つの島にとじこもる破目に陥るのは同じ事であるが、将来再び国が興るか興らないかの大差がある。敗れるのを覚悟で、戦わねばならぬ理由だ」
敗戦後、A級戦犯として入院中の永野修身軍令部総長も、同様趣旨のことをおっしゃっていたという話を漏れ聞いたことがある。
が、その時は、永野大将は、若手士官の圧力に負け、主戦派に転じられたとばかり思っていたから、「敗軍の将の繰り言」とばかり、無視していた。
ところが、産経新聞「正論」欄が十二月に入って始めた「真珠湾への道」第六回に登壇された現代史家、鳥居民氏の「開戦に踏み切らせた小さな意志」によると、永野大将は九月六日の御前会議で「大阪夏の陣の故事を取り上げた」とある。
とすると、永野海軍軍令部総長も、武藤陸軍軍務局長の思いも同じ。永野大将に対する私の誤解も、お陰で氷解した。誰かではないが、やはり歴史は、本物の歴史家の見解を待てということか。
≪参考≫
■【正論】真珠湾への道 日米開戦65年(6)評論家・鳥居民
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/061206/srn061206000.htm