◆1935年「天皇機関説変えよ」 (福井 06/12/17)
http://www.kenmin-
fukui.co.jp/00/kok/20061217/mng_____kok_____000.shtml
学者への弾圧克明に
日本で軍部ファシズムの台頭につながった1935年の「天皇機関説事件」をめぐり、文部省思想局(当時、以下同)が憲法学者ら19人を「速急の処置が必要」など3段階に分類、機関説の修正に応じない場合は講義を担当させないなどの報復措置を警告し、学説の変更を強要していたことが16日、分かった。
思想局の秘密文書が米議会図書館に保管されていた。
事件から70年余。政府が学者を個別に攻撃、転向を迫る徹底した思想統制の過程が個人名や具体例とともに判明した。複数の専門家は、文部省による具体的な圧力の実態を記した文書が確認されたのは初めてだとしている。
文書は、米国が終戦直後に日本で接収した「各大学における憲法学説調査に関する文書」で、計約450ページ。
それによると、思想局は天皇機関説排撃の機運が35年前半に高まったことを受けて憲法学説を本格調査。
機関説を支持する度合いに応じ、19人の学者を「速急の処置が必要」「厳重な注意が必要」「注意を与えることが必要」の3段階に分類した。
その上で著書の改訂や絶版を求め、従わない場合は(1)著書発禁や憲法講義の担当解任(2)講義休講-などの報復措置を取ることを決定した。
(1)には機関説事件に絡んで貴族院議員を辞職する美濃部達吉・東京帝大名誉教授の弟子、宮沢俊義・同大教授らが
(2)には佐々木惣一・立命館大教授らが該当。対象となった学者は講義内容を変更、著書30冊以上が絶版に追い込まれた。
文書によると、一部の学者は「拙著憲法原論は根本的に修正しつつ講義を進めている」などとした上申書を提出した。
美濃部氏が唱えた天皇機関説は「国の統治権の主体は国家にあり、天皇は国家を代表する機関」とする学説。
当初は政府も容認していたが、35年2月に一部議員が議会で攻撃。右翼団体が排撃運動を進めた。美濃部氏が19人の中に入っていないのは、既に著書発禁などの処分対象になっていたためとみられる。
◇天皇機関説事件の経緯に詳しい評論家の立花隆氏の話
ほとんどの憲法学者が美濃部達吉の説に従って教えていたのに、(天皇機関説事件の後は)一斉にくるっと転向してしまう。
いくら社会の空気が変化し、時代の流れががらっと変わったとはいえ、もうちょっと抵抗のしようがなかったのかと思っていたが、転向の理由がこの資料でやっと分かった。
大学の事務当局まで使ってものすごいプレッシャーを大学教員にかけており、裏で文部省がいかに強力に動いたのかがよく分かる。
【天皇機関説】 大日本帝国憲法下での天皇は、法人としての国家の最高機関であって主権者ではないとする、憲法学者美濃部達吉らの学説。
議会が天皇の意思を拘束できるとするこの考え方は「現人神(あらひとがみ)」である天皇の統帥権の下で行動する軍部には受け入れられず、貴族院本会議で1935年2月、陸軍出身の菊池武夫が天皇機関説を大々的に批判したことで政治問題化。
美濃部は貴族院議員辞任に追い込まれたほか主著は発禁処分となった。政府は同年8月3日と10月15日に天皇機関説を排斥する「国体明徴声明」を出し、天皇の統治権は絶対とする考え方が国民に強制されるようになった。