◆日米開戦最後通告 外務省が公電を改竄 大使館に責任転嫁? (産経 06/12/30)
昭和16年12月の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れ、米国から「だまし討ち」と非難された問題で、戦後、この最後通告の公電が改竄(かいざん)され、外務省が編纂(へんさん)した公式文書「日本外交文書」が誤ったまま収録していたことが29日、分かった。
外務省は「公電の原文がない」と説明していたが、産経新聞の調べで国会図書館に保管されていたことがわかり、判明した。
原文にある「14部に分割して打電する」とした重要部分を削除したもので、「在ワシントン大使館の怠慢による手交遅れ」との通説に一石を投じることになりそうだ。
削除されていたのは、最後通告の打電を知らせる901号電の2項部分。原文では「右別電ハ長文ナル関係モアリ全部(十四部ニ分割打電スベシ)接受セラルルハ明日トナルヤモ知レサルモ…」となっている。
ところが、終戦直後の昭和21年2月付外務省編纂「外交資料・日米交渉・記録ノ部(昭和16年2月ヨリ12月マデ)」に収録された901号電の手書きの写しでは「(十四部ニ分割打電スべシ)」の部分が削られていた。
日本外交文書はこれを基に平成2年に出版され、外交史研究などの基礎資料になっている。
公電の原文は、大使館も、最後通告電が計14通送られてくることを大使館側が事前に承知していたことを裏付けている。
開戦当時の日本外交を研究している元ニュージーランド大使の井口武夫尚美学園大名誉教授によると、当時電信事務では、全部で何分割されたか分からない状況では、電信担当官を帰宅させてはならなかった。
逆に事前に14通あることが分かっていれば、残り1通だけを待って徹夜させるのは行き過ぎ、という。
実際、ニューヨーク在住で当時の大使館員で唯一生存する吉田寿一・元大使館電信担当官も今年9月、井口氏に「最後の14部目がいくら待っても来なくて、ひたすら電信室で待っていたが、午前3時過ぎに、あと1通だけで山が見えたから、上司に、数時間でも朝まで帰宅して休むよう指示された」と証言した。
結局、最後の1通に事実上の最後通告となる「日米交渉の打ち切り」が明記されていた。
井口氏は、分割電文数が事前に伝えられていなければ、途中で帰宅した大使館側の過失責任になりうると指摘。
その上で、「A級戦犯として巣鴨拘置所に収監された東郷茂徳外相らを救うため、本省側に、一切の責任を大使館側に押し付ける意図があったのではないか」と改竄の理由を推理している。
日本国際政治学会会長で細谷千博一橋大名誉教授(国際政治)は「書き手が小細工をしたかどうかは判別しにくいが、作為を感じる」という。
外務省は当初、「公電の原文はない」としていた。
しかし、産経新聞が国会図書館に保管されていた原文の存在を指摘したところ、口頭で「(写しに)『十四部ニ分割打電スべシ』の文言がない理由については、資料もなく、今となっては分からない。
外務省としては今後も資料のさらなる発掘、研究ならびに外交記録の適切な管理に遺漏なきよう、取り組んでいきたい」と回答した。
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【用語解説】対米最後通告の遅れ
昭和16年(1941)の日米開戦のさい、日本政府は、真珠湾攻撃の約30分前の米東部時間12月7日午後1時(日本時間12月8日午前3時)に米国に最後通告を手渡す予定だった。
しかし、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わず、野村吉三郎、来栖三郎両大使が最後通告を持って米国務省に着いたのは真珠湾攻撃から1時間近くたった午後2時過ぎ。実際に、ハル国務長官の手に渡ったのは、午後2時20分だった。
米国は当時、日本の外務省電報の暗号解読に成功、ある程度予測していたが、日本を「だまし討ち」と非難した。ルーズベルト大統領は議会で「汚辱の日」と演説、米国は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に対日戦争に入った。
最後通告の遅れは、ワシントンの日本大使館が前日に職員の送別会をしていたことから、戦後、大使館の危機感の欠如と怠慢が原因というのが通説となっていた。
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◆外務省公電改竄 垣間見える本省体質 「大使館主犯説」見直しも (産経 06/12/30)
対米最後通告の公電を手書きで改竄(かいざん)していたことが新たに判明したことは、戦後、通説となっている「大使館主犯説」を見直すきっかけとなりそうだ。
65年前の出来事だが、長く汚名を着せられた大使館関係者にとって今でも看過できない問題だ。
戦後これまでに、資料の発掘と事実の公表をためらってきた外務省本省の体質的な問題が底流に横たわっている、ともいえる。
「軍が決定した計画に従い、限られた時間の中で少しでも手違いがあれば手遅れになり、米側に利用される危険を冒す本省の姿勢こそ批判されるべきだ。天皇陛下が任命した大使を信用できずに情報を秘匿(ひとく)したのは本省のミス」
最後通告遅れに関し、加藤千幸元スイス大使は、著書「エリートの崩壊」でこう述べている。
実際、14部に分割された公電の最後の分が在ワシントン大使館に着いたのは、13部目が届いた14時間後。13部目までは日米交渉の経緯が延々と書かれていた。最後通告のような重要な内容には、あってしかるべき「大至急」「至急」指定もされていなかった。
「米国に気取られず、真珠湾攻撃を成功させるには、まず出先の大使館を欺く必要があった」との見方もある。
それでも、戦後も外務省は、関係者の死亡や文書の不在などを理由に、こうした経緯を明らかにする関係資料を積極的に開示してきたとはいえない。
開戦から半世紀以上経過した平成6年10月に、大使館関係者からの聞き取り調査結果を公表した程度だ。基礎資料編纂(へんさん)にあたって、国立図書館が保管している原文との照合さえ怠っていた。
もちろん、大使館の責任が軽減されるわけではない。しかし、そこには歴代担当責任者の「本省の責任を回避したい」との意識が垣間見える。
3年に作成された外務省の内部文書では、最後通告の遅れについて「大使館の事務処理に適切さを欠いた点があったことは事実。その意味で大使館に責任があるといえる」としていた。
今回、産経新聞の取材に外務省は、「当時の切迫した情勢について本省側と大使館で認識の差があったことは否めない。本省側でもさらに配慮すべき点があったかもしれない」などと回答、その姿勢には変化も見られる。