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◆【詳説・戦後】第4回 北方領土(3-1)日ソ国交回復交渉(産経 07/1/9)



日ソ共同宣言に調印する鳩山一郎首相(左)とソ連のブルガーニン首相(右)=昭和31年10月19日、モスクワ

 終戦直後、旧ソ連が不法に占領した北方領土は、61年余を過ぎた今も日本に返還されていない。日露間の交渉は暗礁に乗りあげているが、その原点とでもいうべき半世紀前の日ソ国交回復交渉を振り返ってみた。
 ■禍根残した共同宣言 返還…夢で終われぬ

 日本政府がソ連に北方領土返還を本格的に求めたのは、鳩山一郎首相が昭和30年1月に開始した国交回復交渉の場だった。日本はサンフランシスコ平和条約によって、27年4月に独立を回復したが、旧ソ連は同条約に署名せず、国際法上は「戦争状態」が続いていた。

 ロンドン、モスクワでの交渉を経て、31年10月、鳩山は全権団を率いてモスクワを訪問した。脳出血の後遺症で左の手足が不自由だった鳩山は当時73歳。健康状態が危ぶまれたが、それを押しての訪問だった。

 鳩山訪ソ前の世論は、国交回復は支持しつつ、南樺太も含む領土返還の実現を強く求めていた。自民党内からも「固有の領土である択捉、国後を失ってまでも国交を回復しなければならない積極的理由はない」(元外相で参院議員の野村吉三郎)との鳩山批判が吹き荒れた。新聞も「見込みなき鳩山訪ソ無用」(同年9月1日産経時事の社説)などと攻撃した。

 返還に応じないソ連と、世論の板挟みとなった鳩山は訪ソ決定時の談話で「固有の領土に対しては、その主張を断じて譲るものではありません」と強調した。

 だが、当時はシベリア抑留者の帰還も大きな懸案だった。

 「抑留者の帰還や国連加盟などを早く実施させる方法をとらなければ駄目だ。社会党は間接的にご援助願いたい」

 鳩山は訪ソ決定前の夏、軽井沢の別荘に社会党の委員長、鈴木茂三郎をひそかに招き入れた。鳩山番の記者たちが引きあげた夕方、ヘルメットをかぶって変装して裏口から応接間に入った鈴木に、鳩山は深々と頭を下げた。

 後に鳩山が「その日(領土返還)が来るまで(国交回復を)やらないのだと頑張っていたのでは抑留者たちが参ってしまう。領土は何年経ってもなくなることはないが、人の命は限りがある」(「鳩山一郎回顧録」)と振り返ったように、領土よりまずヒトを取り返すのが先決だった。

 それでも、モスクワ交渉では、鳩山、農相の河野一郎、松本俊一の全権団は北方領土をめぐってソ連側と応酬を続けた。択捉、国後を含めた4島即時返還は無理でも「歯舞、色丹は返還。その他の領土は継続審議にしてもらいたい」と全権団は粘った。

 ソ連外務省もこの案をほぼ受け入れ、(1)歯舞、色丹の返還時期を平和条約が発効し、米国が沖縄と小笠原諸島を日本に返還したとき(2)残る領土問題を含め平和条約交渉を継続-と逆提案した場面もあった。全権団は歓声をあげたが、フルシチョフが翌日、撤回してきた。

 「今更取り消すのはおかしいではないか」

 強気で鳴らした河野は第1書記、フルシチョフに直談判したが、クレムリンの壁は厚かった。

 交渉の結果、(1)戦争状態の終結と国交の回復(2)平和条約締結後に歯舞、色丹を日本へ引き渡す(3)平和条約締結交渉の継続-を柱とする「日ソ共同宣言」が発表された。シベリア抑留者送還と日本の国連加盟の支持も約束された。

 帰国した鳩山を待っていたのは、歓迎の人波だった。シベリア抑留者の帰国は、ようやくソ連との「戦争」が終わることを人々に実感させたのだ。

 孫で、民主党幹事長の鳩山由紀夫は当時9歳だったが、提灯(ちょうちん)行列を覚えている。「街全体がお祭り騒ぎだった。大(おお)パパはすごいことしたんだ、と思った」と振り返る。

 だが、その陰で北方領土問題は置き去りにされたのも確かだ。

 56年、鈴木善幸内閣は2月7日を「北方領土の日」と定めた。運動は一時盛り上がったが、一部新聞には「『北方領土の日』悪乗りの危険性」(同年1月7日読売新聞)、「どう薄める右寄り路線」(1月25日朝日新聞)などの見出しがおどる始末だった。

 日露協会会長でもある鳩山由紀夫は、共同宣言50周年にあたる昨年10月、モスクワでの日露フォーラムで「一郎は50年たっても日露がこんな状態なのを天界からいたく嘆いているに違いない。原因の一つに共同宣言があるのを後悔しているだろう」と語った。

 由紀夫は「元島民の高齢化を考えると、時間は大きなファクターだ。政治家の努力が必要だ」と語るが、今もロシアは返還に応じる気配すらみせていない。(敬称略)

                   ◇

【用語解説】北方領土の自然

 北方四島の面積は5030平方キロで福岡県よりも広く、沖縄県の倍以上ある。最大の択捉島は鳥取県とほぼ同じだ。国後島も沖縄本島よりも広い。平均気温は8月で約16度と涼しい。北岸はオホーツク海。南岸の太平洋は千島海流(親潮)と黒潮の交流点で世界3大漁場の一つともいわれ、サケ、マス、タラ、カニの宝庫。

                   ◇

【用語解説】ソ連軍の侵攻

 ソ連軍は昭和20年9月5日までに北方領土を占領した。同年8月15日時点で北方領土の日本人島民は3124世帯1万7291人を数え、7割以上が昭和元年以前から島に住む人々だった。39校あった国民学校(小学校)などへ約3000人の子供が通っていた。また、千島列島北端の占守(シュムシュ)島には終戦時、日魯漁業の缶詰工場の社員2500人がいた。8月18日、ソ連軍の攻撃に日本軍は自衛のため応戦し、日魯漁業の女性社員400人を北海道へ脱出させた。

 4島に住んでいた一部の島民も着の身着のまま北海道へ脱出。島に残った人々は強制労働をさせられ、シベリアや樺太に抑留された後、多くは24年ごろまでに日本へ強制退去させられた。

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 【北方領土ミニ事典】

 ■サンフランシスコ平和条約と北の領土 日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」と「南樺太」を放棄した。日本政府はこの「千島列島」は得撫(ウルップ)島以北で択捉など北方四島は含まれていないと主張している。旧ソ連は同条約の署名を拒否し条約上の権利を主張できないが、旧ソ連とロシアは北方領土、南樺太、千島列島すべてを自国領と主張する。日本政府はロシアに北方領土の返還を求め、南樺太・千島列島の帰属は未定-としている。南樺太と千島列島の返還は求めず、得撫島と択捉島の間に国境線を引くことを目指している。

 昭和40年4月6日の衆院本会議で、自民党の佐藤孝行衆院議員は北方領土返還決議への賛成討論で、千島列島、南樺太への「わが党の見解」として「領土放棄したものではない。最終的帰属は、国際的に定めるべきものだ。国際的会議を開かれる場合は、わが国は、これらの地域に対する領土の返還を求める権利を留保する」と述べていた。

 ■ロシア住民とロシア軍 北方領土のロシア人住民は1万6796人(平成17年現在)。択捉島6904人、国後島6697人、色丹島3195人で、歯舞諸島には国境警備隊員しかいない。日本政府は平成4年から、相互理解のため日本人元島民・子孫らとロシア人住民とのビザ(査証)なしの相互訪問を進めている。

 防衛白書(平成18年版)などによると、旧ソ連は昭和53年から戦車、北海道を射程とする火砲、対空ミサイル、戦闘機、兵員輸送ヘリなどの軍部隊を本格的に配備。冷戦期と比べれば規模は減ったが、今もロシア軍や国境警備隊が常駐。択捉島と国後島の間の国後水道は冬季に露海軍艦艇が太平洋へ抜けるルートになっている。

 ■本籍が置ける 昭和58年3月施行の「北方領土問題解決推進特別措置法」で誰でも戸籍が置ける。戸籍事務は根室市長が担当、返還への国民の関心を高めるねらいがある。歯舞諸島は34年に根室市に編入されたため同法以前から本籍が置けた。平成17年末現在で北方領土に本籍を置く人は108人。


■【詳説・戦後】第4回 北方領土(3-2)元島民の今

本土と目と鼻の先にある国後島。北方領土の総面積は5030平方キロにもなる(本社ヘリから)


 日本固有の領土でありながら日本国民が住めない北方領土。元島民の今を北海道根室市で取材した。
 ■「島ごと拉致」無策に嘆き

 北方領土に最も近い納沙布岬。真冬の澄み切った青空の下、歯舞諸島の貝殻島が肉眼でもよく見える。わずか3・7キロ。同諸島をカメラの望遠レンズ越しに見ると、ロシア国境警備隊の監視所や教会が確認できる。

 昨年8月、この海域でロシア国境警備隊が日本の漁船を銃撃、乗組員1人が死亡した。以降、海上保安庁は巡視船を1隻から2隻に増やし、監視態勢を強化した。

 北海道と北方領土の間の「中間ライン」は、ロシアに漁船が拿捕(だほ)されないよう便宜的に引いているだけで、日本政府は効力を認めていない。このため地元漁業者には「自分たちの海」という意識が強い。根室の漁協幹部は「中間ラインを出て操業するのは常識だった。事件後、中間ラインを越えられず水揚げが半減した者もいる」と本音を漏らす。

 岬の突端近くには独立行政法人「北方領土問題対策協会」(北対協)が管理する北方館がある。北方領土返還の世論喚起を目的に建てられ、古地図や動物の剥製(はくせい)を展示、2階の展望室から歯舞諸島を一望できる。だが、どうも物足りない。入館者も平成4年に68万人を記録したが、昨年は11万人まで激減した。観光客の多くは、北方館を素通りするのだ。ソ連軍に追われ着の身着のままで脱出した当時の状況を再現するなどの工夫が必要だろう。

                   ◇ ◇

 領土返還運動の先細りにいらだちを覚える根室市在住の元島民は多い。終戦時約1万7000人もいた元島民は現在、約8000人まで激減し、平均年齢は73・5歳(昨年3月末現在)。このため、元島民らで構成する「千島歯舞諸島居住者連盟」根室支部は、運動後継者を育成するため、島民2世、3世に連盟加入を勧誘する切迫した状態が続いている。

 元島民で漁師の池田英造さん(73)=国後島出身=は昭和36年夏、操業中に中間ラインを越えたとしてソ連側に拘留された経験を持つ。一家は、池田さんが12歳だった昭和20年9月、国後島を夜陰に紛れて船で脱出した。唯一持ち出せた家財道具はノコギリとオノなどの工具だけ。池田さんは「根室に着いたら、木を切り出し草をふいて雨露をしのごうと思った」と振り返る。それらの品は故郷の思い出として家の倉庫に大切に保管されている。

 ある70代の元島民は昨年夏、ボートで北方領土に渡り、沿岸に日の丸の旗を立てる計画を立てた。だが銃撃事件が起こり、警備が強化されたため断念した。この元島民は「拿捕されてもよかった。騒動を起こさないと日本政府は動かない」と憤る。

 島の行事と思い出を後世に残すため水産会社を経営する得能宏さん(72)=色丹島出身=は毎年、元島民とともに根室市内の金刀比羅神社を借りて、島の神社を「色丹神社」と総称して祭礼を続けている。

 漁業者の楠木秀夫さん(82)=国後島出身=は「元気なうちに1島でも2島でも返してほしいが、4島返還は難しいだろう」と悲観的だ。1等兵として色丹島で終戦を迎え、シベリアに抑留された六本木兵治さん(82)=同=も「北方領土が返るとは思えない。戦争に負けたから」とつぶやく。

 島を追われた体験談を伝える「語り部」として活動している鈴木咲子さん(68)=択捉島出身=は道立北方四島交流センターで、根室にやってくるロシア人に領土返還を訴え続ける。鈴木さん一家は昭和20年9月下旬、島北部にある蘂取(しべとろ)村の自宅に銃剣を持ったソ連兵に押し入られ、タンスの引き出しから、懐中時計や指輪を奪われた。鈴木さんは戦後3年間を村で過ごした。両国の子供たちが混在して通った小学校では人形遊びや縄跳びをロシア人の女の子たちと一緒に楽しんだ。しかし、男の子たちはけんかが絶えず、暖がとれる教室はロシア人生徒に奪われ、日本人生徒は寒い体育館に押しやられたりしたこともあったという。その後、ソ連軍に島を追われ、10歳で樺太(サハリン)の強制収容所に家族ともども送られた。

 「収容所の食事は、黒パンとニシンの塩漬けぐらいで粗末。多くの日本人が栄養失調になった。引き揚げ船の中では死んだ赤ん坊をおんぶしていた人もいた」と語る。

 村の自然は豊かだった。夏には丘の上に黄色のエゾカンゾウの花が咲き乱れ、秋になるとサケが産卵のため遡上(そじょう)して川が真っ黒に染まる様子を今もはっきり覚えている。ただ、鈴木さんの話を聞いたロシア人は「元島民はかわいそうだけど、領土は返したくない」と口をそろえるという。

 北方四島交流センターの玄関には「挑・返還」とのスローガンが掲げられている。鈴木さんは「島ごと“拉致”されているのに今の日本人はのんきだ」と嘆くことしきりだ。

                   ◇

 【北方領土関連年表】

              (肩書は当時)

 安政

 元年12月 日露和親条約(通好条約)締結。択捉島とウルップ島の間を国境と

(1855年 し、樺太は両国民混住地

   2月) 

 明治

 8年 5月 樺太千島交換条約締結。千島列島が日本領、樺太がロシア領に

(1875年)

 明治

 38年9月 日露戦争講和のポーツマス条約で南樺太が日本領に

(1905年)

 【昭和】

 16年4月 日ソ中立条約締結

 20年2月 ヤルタ会談で米英が千島列島をソ連に引き渡すと密約(米政府は31年、法的効果を否定)

    7月 ポツダム宣言。日本の主権を本州、北海道、九州、四国と「われらの決定する諸小島」に限定

  8月9日 ソ連が日ソ中立条約を侵犯して対日参戦、南樺太へも侵攻(11~29日)

   14日 日本、ポツダム宣言を受諾

   18日 ソ連軍、千島列島北端の占守島へ攻撃開始

 9月 5日 ソ連軍、千島列島、北方領土の占領完了

   12月 安藤石典根室町長が会長の「北海道付属島嶼復帰懇請委員会」が返還運動を開始

 21年2月 ソ連、北方領土を含む「千島列島」と南樺太を「自国領」に編入

    4月 ソ連、日本漁船を北方領土海域で拿捕

 22年 秋 島民が北方領土から順次、樺太など経由で強制退去させられる(24年までに)

 25年11月 千島及び歯舞諸島返還懇請同盟結成

 26年 9月 サンフランシスコ平和条約調印。日本は南樺太、千島列島の領有権を放棄。日本政府代表は北方領土を「日本固有の領土」と演説

 27年 4月 日本、独立回復

 31年10月 鳩山一郎首相が訪ソし、国交回復で合意。共同宣言で平和条約締結後の歯舞、色丹返還を明記

    12月 日本、国際連合に加盟

 35年 1月 日米安保条約改定を受けグロムイコ外相が対日覚書。2島返還の白紙化表明

 39年 9月 北方領土墓参実現

 44年 8月 歯舞諸島沖で日本漁船がソ連警備艇に衝突され沈没。漁船員11人死亡

 48年10月 田中角栄首相とブレジネフ書記長が会談。「戦後の未解決の諸問題」に領土問題含むと確認

 56年1月  北方領土の日(2月7日)の制定を閣議了解

 【平成】

 3年4月   日ソ共同声明で、北方領土が平和条約で解決されるべき領土問題の対象と確認

   12月 ソ連崩壊。ロシア連邦発足

 4年4月 渡辺美智雄外相、日本の主権を認めれば国後、択捉両島の施政権を一定期間認める「2段階返還」表明。北方四島ビザなし交流開始

 5年10月 細川護煕首相とエリツィン露大統領が東京宣言。領土問題は択捉など4島の帰属問題と明記

 9年11月 橋本龍太郎首相、エリツィン大統領がクラスノヤルスクで会談。「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことで合意

 10年4月 橋本首相、エリツィン大統領との川奈会談でウルップ島と択捉島の間に国境線を引くよう提案

 11年9月 元島民らのビザなし自由訪問開始

 18年8月 日本漁船が歯舞海域で露国境警備隊に銃撃され、乗組員の盛田光広さん死亡



■【詳説・戦後】第4回 北方領土(3-3)観測気球?面積等分論


 日ソ国交回復から50年の昨年、麻生太郎外相ら日本の要人が、北方領土問題について、択捉・国後・歯舞・色丹の4島全体の面積を日露両国で2等分する解決案に言及した。政府は従来の方針に変更はないと強調しているが、「外務省の観測気球ではないか」(自民党筋)との憶測を呼んでいる。
 麻生氏は昨年12月13日の衆院外務委員会で、民主党の前原誠司氏の質問に対して「2島だ3島だ4島だという話になると、こっちは勝ってこっちは負けたという話になり、なかなか合意が得られない」「択捉島の25%を残りの3島にくっつけると50、50の比率になる」と答弁した。

 政府は、同月24日の臨時閣議で決定した答弁書で「4島の面積についての質問に答えたもので、北方領土問題に関する従来の方針を変更するものではない」と回答、4島の主権は日本にあるとの主張に変更はないと強調した。

 閣議決定の答弁書の意味合いは重いが、麻生氏の答弁には「単なる面積の説明だったとはいえないのでは。北方領土問題は旧ソ連・ロシアに全面的に非がある。これではロシアにつけ込まれかねない」(日露関係筋)と不安の声が出ている。また、日ソ共同宣言の全権の一人、河野一郎農相の孫の河野太郎衆院議員(自民党)も昨年10月、モスクワでの日露フォーラムで面積等分論を唱えているが、ロシア側は拒否反応を示している。
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by sakura4987 | 2007-01-10 13:15

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