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◆【ビューポイント】外交的悪徳になる和の精神 (世界日報 07/2/)



日本人の悪しき自画像/美徳の悪徳への変換を読解

北欧文化協会理事長 武田 龍夫

主情的で受け身の国民的性格

 ある国民の欠点は対外関係で表現される(トクヴィル)という仮説は日本人の美徳と悪徳の逆説としても成立する。今回はそれを幾つかの自画像で要約して問題提起してみたい。勿論それのみが目的ではない。国際政治との関係において国民的美徳の悪徳への変換を分析的に解読して参考に供したいというのである。

 第一に日本人の国民的性格は主情的特徴を有することであり、これはもう常識と言ってよく、ムードに弱く理性的でないということであり、マスメディアの煽動はこれを容易に操作することができる。言い換えれば原理原則がないということだ。つまり無思想だということであり、例えば女子校生的憲法九条信仰などはその代表例だ。

 次にここから集団主義の特徴も派出してくる。つまり相互に妥協的解決を計る傾向を伴うこととなる。その基底には「恥の文化」がある。上方商人が昔(約束を守らねば)「万座の中でお笑い下されたく候」と誓い合った町人社会のモラルのことである。それは結果的に「ソニーの佐藤」を一般化させ「エンジニア技師の佐藤」を区別させることとなるわけである。

 次に来るのは受け身の特徴である(但しこれらは順位という意味ではない。いずれも同じ荷重で枝分かれしているのだ)。それは否定の受け身ということである。例えばよく「これを買わされてねー」とか、「先日泥棒に入られてねー」とか言うことがあるが、これはまさに自分に責任がある考え方ではないか――。

 それは盲目的な劣等感が精神的基調にあるからだ。その反動が例えば先の戦争中の鬼畜米英といった形をとるわけである。それは言うなれば帝国主義時代の欧米列強による侵略ないし植民地主義への怒りの心理でもあるアジア的心理の表出とも言うべきもので、結局は力と権威への服従の作用なのである。そして言うまでもなく、ここから力―権威、権力への服従が生まれる。

国際舞台で主体性欠如を招く

 そして次は曖昧性だ。ヒロシマ原爆碑の「過ちは二度と繰り返しません」がそれである。一体誰の過ちなのか――自分なのか米国なのか人類全体か、とにかく「あれかこれか」ではないのだ。いわば「晴れて良し、曇りても良し富士の山」(鈴木大拙)の裏返しである。

 右の結果が和の精神、譲り合いの精神となる。そしてそれはともすれば過剰反応をも結果する。つまり自己サディズムの不可能から過剰マゾヒズムとなるのである。

 「貴様ら!こんな出鱈目な裁判をやって――」と裁判官席に詰め寄り衛兵からピストルを突きつけられ「ドイツ万歳!」を叫んだドイツ戦犯を思うがよい。しかし日本人は最後まで運命と戦う国民ではないということだ。日本人「戦犯」(この語の疑問には言及しない)はこれに対して丁寧に一礼して辞世を残し刑場に向かったのである。

 これはまさに日本的美徳ではあるが国際的には誤解されるか、もしくは悪徳と解されるのである。

 このような事例は幾らでも上げられるが、結局日本人は換言すれば本質において女性的国民だということである。これが国際的次元では原理的に女性的美徳として表現されることとなるわけである。具体的には一例が謝罪文化の美徳が国際的にも適用すると思い込むのである。

 しかし、それは主体性の欠如ないし脆弱ということなのだ。そしてこれが国際的には外交的な自己否定と直結するのである。例えば日ソ中立条約で日本に対米戦争をけしかけたスターリンや、日本に先に手を出させて世論を戦争にまとめ上げたルーズベルトの狡猾さに対して「清水の舞台から跳びおりる覚悟で」(東條首相)戦争を決意した三例を比較してみることだ。日本的な主体性欠如と合理的選択理論の不在は明確ではないか――。ガイアツの宿命はここに見られる。

アジア激動時代に精神改革を

 さて以上の簡単な要約と日本の地政論的立場を考慮するとき、英国との比較が視野に入ってくる。英国の海洋進出と西欧および米国との歴史的関係である。それは日本とアジア大陸国家との相似を教えているからだ(ルドルフ・チェレーン)。

 その意味で朝鮮半島国家を中心とする東アジアの激動の序曲を迎えて、迷走し漂流する日本の急務は新和魂洋才の自画像の確立にある――いわば戦後日本人の精神的改革が急務だということなのである――。何故なら危機の時代は必ずやって来るからだ――。
by sakura4987 | 2007-02-08 16:25

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