◆【誰がために散る もう一つの「特攻」】(8)残されしもの
(産経 07/6/5)
■生と死の重さを語り継ぐ
「回天の母」と呼ばれた、おしげさんこと倉重アサコさんは大津島・回天基地の部隊解散の日、生き残った搭乗員と初めて島に渡り、ある約束をした。
「10年後、最初の出撃記念日の11月8日にみんなで松政で会いましょう。それまで私がこの大津島をお守りします」
そして、約束の昭和30年11月8日。早くも午前6時に訪ねてきた男性は玄関に入るなり、「お母ちゃん」と抱きついてきた。
連れていた5歳ぐらいの子供が物珍しそうに父親を見つめる。うれし涙が止めどなく流れるうちに、その数は十数人になった。
午前10時、全員で大津島に渡った。その後、毎年11月8日には大津島で慰霊祭が行われるようになった。おしげさんは毎年参列し、息子たちの出撃前の様子を遺族に伝えてきた。
おしげさんは18歳の2人の少年が出撃するのを見て、「どの人も死なせたくないけれど、まだ幼な顔の残るこの2人は、ことさら私の胸をえぐるのでした。『これが戦争というものなのだ』。そう自分にいいきかせて、じっと耐えるしかありませんでした」と語っている。
そんな思いを少しでも和らげようとしたのだろうか。松政の2階にある小さな自分の部屋に、夫の位牌(いはい)と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』の戒名を施した白木の位牌を置き、朝夕、お経をあげていたという。
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回天特攻作戦では、回天の故障などで帰還した搭乗員も多い。甲飛13期出身の吉留文夫(80)は20年5月5日、「振武隊」として出撃。同月27日未明に敵船団と遭遇したが、電動操舵(そうだ)機が故障し発進できなかった。
「自分が発進できなかったことに対する自責の念が強くて、頭の中は真っ白だった」
2回目は7月19日。「多聞隊」として出撃し、太平洋で敵艦隊を求めたが、8月9日に急遽(きゅうきょ)、帰投命令が出た。そして15日、洋上で玉音放送を聞いた。
「帰ってきたのは自分の責任で、戦友に合わす顔がないというのが正直な気持ちだった。映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。戦後、大暴れして特攻崩れといわれたが、それはある種、死に場所を探していたんだ。戦友に申し訳ないと」
吉留は戦後、肺がんを患い、医師から余命1年と宣告されたことがある。そのとき、考えたのは親のことでも子供のことでもなかった。亡き戦友に会ったとき、何を話すかだった。
「出撃するときは、お互い『先に逝ったら、靖国神社でおれの席を取っておけよ』が合言葉になっていた。本当におれの席があるのかどうか。いずれ、みんなの待つ靖国神社にいくという気持ちが残っているんですね」
吉留が続ける。
「2回も生きて帰ってきたのが自責の念として強く残っていて、回天のことはあまり話したくなかった。でも、いまの日本人を見ていると、戦友が何のために死んでいったのかを子供や孫に伝えないといけないと思うようになった。海に手をつけると、戦友が水の中から『おい』って声をかけているような気になる」
おしげさんも、こう言い残している。
「戦争の悲しみは、もう再び繰り返してはなりませんし、神風や回天のような、絶対に死ぬとわかった兵器による特攻は、絶対に避けねばなりません。けれどもお国のため、みんなのために死んでいった若い人たちの心は、いまの若い人たちにも伝えておかねばならないと思います」
「徳山湾の海を見ていると、一人ひとりの顔が思いだされてきます。命あるかぎり、忘れることのないあの顔、この顔…。けれどもそれは、もう二度と『お母ちゃん』とは呼んでくれない顔なのです」
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昭和46年7月、松政が閉鎖されるに伴い、おしげさんは引退。60年2月22日、ある遺言を残し、この世を去った。
「ええか。私の骨は海にまいて。子供たちが海の中で待っているから。絶対、海に入れてよ。子供たちと酒を飲むから」
おしげさんの遺骨は、回天を考案し黒木博司が訓練中に殉死した海域にまかれた。
=敬称略、おわり

