◆【産経抄】 (産経新聞 1998/8/23)
新聞の訃報は小さかったが、戦後の歴史はまた一人、貴重な生き証人を失った。奇しくも八月十五日に亡くなった竹光秀正さん、終戦直後、当時の重光葵外相の秘書官を務めていた人である。
昭和二十年九月二日、竹光さんは重光外相の車に同乗し、東京から横浜へ向かっていた。重光が日本の全権として、米戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式に行くためだった。
早朝でまだ薄暗かったが、車は一部軍人らの妨害を避けるため、ヘッドライトを消していた。
車中で重光は竹光さんに「おい、ペンはあるか」と思いついたように語りかけた。竹光さんが、戦前に上海で手に入れた万年筆を差し出すと、重光は受け取るなりこうつぶやいたのだそうだ。
「調印のときに向こうのペンなど使えるか」
結局、日本の再出発となった降伏文書には、竹光さんの万年筆で日本側のサインがなされた。竹光さんは後に、重光と共通の郷里大分で余生を送るが、本紙の連載『戦後史開封』で訪ねたF記者に以上の話をしてくれた。きのうのことのようにだったという。
重光は外務官僚出身で、国粋主義者でも何でもなかった。むしろ、終戦前後は和平推進派として戦争続行派からにらまれていた。この日朝、宿舎の帝国ホテルを出るときも、竹光さんに「何が起きても見苦しいことがあってはならんぞ」と、覚悟を示していたほどだった。
その重光でも、敗戦で崩れ去りそうになる日本人としての矜(きょう)持(じ)を必死に保とうとした。それを一本の万年筆に託したのかもしれない。あるいは、その後の日本人へのメッセージだったのか。生き証人は亡くなっても、こんな話だけは語り伝えていきたくて書いた。

