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◆BC級戦犯かく裁かれた (世界日報 07/9/17)




自らの戦争犯罪は概ね否定


潔かった堀内元海軍大佐


指揮官故に極刑の山下、本間将軍


 東京裁判(極東国際軍事裁判)が、戦争重大犯罪人であるA級戦犯を裁いたのに対して、通常の戦争犯罪すなわち捕虜を含む非戦闘員に対する残虐行為を行った者への軍事裁判が開かれた。これがBC級戦犯裁判である。



 BC級戦犯とは、戦争犯罪を犯したとして連合各国の軍事裁判に付されて有罪となった人たち。通例の戦犯としては集団殺害、組織的テロ、捕虜虐待、一般民衆への拷問など三十三項目が挙げられた。中でもポツダム宣言では「われらの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えらるべし」と規定され、連合国の捕虜の扱いの責任は厳しく問われた。



■無実の者も多く


 BC級戦犯として米、英、オーストラリア、オランダ、フランス、フィリピン、中国などが裁判所五十余カ所で戦犯と称する日本人五千四百八十七人を起訴し、有罪となった者約四千三百七十人、死刑になった者は実に九百三十人、終身刑三百三十五人、有期刑約三千九十八人に達した。A級戦犯として裁かれた二十八人のうち、七人の死刑者を出したのに比べ、有期刑を含めても量的には圧倒的に多い。



 指揮官としての管理責任を問われた山下奉文、本間雅晴の両将軍をはじめ残虐行為を実際に行ったとされた者に至るまで、BC級戦犯の多くは、法による満足な保護や手続きもないまま、過酷な取り扱いを受け、刑場の露と消えて行った。日本軍による残虐行為が実際に多く発生した以上、やむを得ない部分もあったが、被害者、目撃者の証言が確実に吟味されることなく、証拠として採用され、また人違いや風俗習慣の違いからきた誤解、さらに個人的怨恨による告発などもあって処刑、服役した者の中にも、無実の者が含まれていたことは否定できない。



 その典型が銃殺刑に処された元海軍兵学校教官、堀内豊秋元大佐である。堀内氏の場合、悲劇と、その潔さが凝縮されている。堀内大佐は太平洋戦争緒戦の昭和十七年一月、落下傘部隊を率いてインドネシア・セレベス島のメナドに降下して電撃的勝利を収めた。大佐は占領下の現地インドネシア人を愛し、投降したオランダ兵への暴行を厳禁した折り目正しい武人だった。「日本軍はインドネシアをオランダから解放するため戦っている。軍紀は厳しくするから安心して仕事に励むように」と伝えたが、これがオランダの反感につながったかもしれない。



 占領地で名声を高め、善政を敷いた堀内大佐は敗戦後、邦人の引き揚げ業務に従事していたが、その大佐を待っていたのはBC級戦犯の逮捕状だった。オランダ法廷での起訴状は「メナドの戦闘で投降したオランダ軍人や官吏を大佐の部下が銃剣で突き殺したり、繰り返し虐待、暴行を加えた」というもの。大佐は残虐事件に耳を疑ったが、彼は一切の責めを負って昭和二十三年九月、死刑の銃弾に倒れた。四十七歳の若さだった。



 汚名を着て言挙げせず逝った大佐の心中には、自分の死がかつての同僚、部下の減刑につながるという切なる思いと、多くの部下を死なせた上官としての強い責任感があったのだろう。刑死した大佐は遺書で「自分の死は見守る人もいないが、立派なものと信じてほしい。死に臨んで少しの不安もないのは、過去の清らかな生活がそうさせるのだろう」と書き、目隠しも断って処刑された。



 このほか中国は国民政府と人民共和国がともに裁判を行い、国民政府は北京、上海、南京などで百四十九人の死刑を出している。人民共和国の裁判は連合国の裁判と異なり、一方的に裁くことをしなかった。「認罪」といって戦犯が自らの戦争犯罪を考え抜き、それを認識させることに重点を置いた。その結果、千六十九人のうち四十四人を除き起訴を免除された。



■虐待の証拠なく


 連合国の裁判で一体誰が裁かれたのか。堀内大佐や山下、本間両将軍のように指揮官、キャップとともに、憲兵や捕虜収容所関係者が多い。BC級戦犯に共通するのは「自らの戦争犯罪の否定」である。昭和二十八年に出された「世紀の遺書」をみても「決して破廉恥な行為で死刑になったのではなく、私のためでもなく、全部国のためにやった行為が戦に敗れてこんな結果になった」「ただ職に殉じ部下をかばい、男らしく責任をとって散って行く私を信じてほしい」との声が連ねられている。



 BC級戦犯の中で最も注目を集めたのが本間、山下両将軍の場合である。本間が追及されたのは緒戦のフィリピン・ルソン島のバターン死の行進である。本間中将のバターン作戦は昭和十七年四月九日に終了。本間はこの作戦での米比軍の捕虜は二万数千人程度を予定していたが、実際は八万五千人にも上った。しかもほとんどがマラリアなどの熱帯病に冒されていた。この大量の人数では用意していた二百台のトラックは役に立たず、バターン南部からオドンネル収容所まで約百二十キロの徒歩移動が始まったが、この行進の途中、米人約千二百人、フィリピン人約一万六千人が死亡、あるいは虐殺された。



 山下大将はシンガポール攻略によって“マレーの虎”と恐れられたが、東条とは合わず満州に転出させられていた。が、東条退陣後の昭和十九年十月初め敗色濃いマニラに派遣された。その時はマッカーサーのフィリピン奪回作戦が始められており、山下はマニラ撤退命令を出し、北部ルソンの山間部に司令部を移した。マニラに残された陸海軍将兵は狂徒と化し、マニラ在留部隊が全滅するまでの間に約六万人のフィリピン人が虐殺されたという。部下との連絡が絶たれた山下はこれを知る由もなかった。



■報復裁判の犠牲


 山下裁判の審理は敗戦直後の二十年十月二十九日からマニラで満員の傍聴人の見守る中で行われ「指揮官としての義務を果たすことを怠り、部下に残虐な行為を行うことを許した」事実を認めるため二十日間にわたって続いた。だが、残虐行為と山下将軍を結びつけるような証拠は出なかった。十二月七日絞首刑が宣告され翌年二月二十三日処刑された。



 本間裁判は二十一年一月三日に始まり、検察側証人の証言が連日続き、弁護人はこれらの事実を知らなかったと述べたが、裁判官は聞く耳を持たず、二月十一日銃殺刑が宣告され、四月三日に処刑された。捕虜のことは部下にまかせ“死の行進”を知らなかった本間と、マニラの虐殺を知りようもなかった山下が、指揮官の故、有罪宣告を受け、処刑されたことは戦犯裁判史上前例のないことだった。従って「勝者の裁き」とか「マッカーサーの復讐」と言われても仕方がない。でも虐殺によって被害を受けた側から言えば、どこに怒りを向けるのか――これもまた仕方がないとも言える。



 「報復裁判」による「犠牲者」――これが多くのBC級戦犯たちが自らを位置づけた所だったのか。
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by sakura4987 | 2007-09-22 15:22

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