◆【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久 憲法論議に必要な冷めた目
(産経 2008/5/17)
◆立憲君主による「聖断」
先月29日の「昭和の日」から今月3日の「憲法記念日」まで、昭和の日本について考える機会が多かった。例えば先の大戦で日本がポツダム宣言を受諾、つまり「終戦」の決定をした昭和天皇の「ご聖断」である。
昭和20年8月9日深夜、「御前会議」として開かれた最高戦争指導会議で、ポツダム宣言受け入れ論と戦争続行論とが3対3と、真っ二つに割れた。
それなら、受け入れ派で「議長役」だった鈴木貫太郎首相が決断すべきところである。だがこの老宰相はそうはせず、天皇の前に進み出た。「まことに異例で畏(おそ)れ多いことでございますが、ご聖断を拝しまして…」と訴える。
昭和天皇は「それなら言おう」と口を開き「(東郷茂徳)外務大臣の意見に同意である」と述べられた。受諾すべしだった。
それでもなお「国体護持」に関する連合国側の回答の受け止め方で政府内の意見はまとまらない。14日に再度開かれた「御前会議」で天皇が「私自身はいかになろうとも」と受諾を表明されたのを受けようやく閣議決定した。
多数決では「戦争続行」の軍を納得させることはできないという鈴木らの「作戦」だった。しかしあくまで「異例」であった。
当時の大日本帝国憲法によれば天皇は国家の統治者であった。だが一方、第55条で「国務各大臣は天皇を補弼(ほひつ)し其(そ)の責に任す」とあり、実際の政治決定は政府が行い、責任もとるということになっていた。昭和天皇ご自身も、周囲に対し「政府が決めたことを天皇が勝手に容喙(ようかい)し干渉し、これを掣肘(せいちゅう)することは許されぬ」と述べられている。天皇は政府に対し意見は述べても、命令はできないというのがそのお考えだった。
その意味で、「ご聖断」は立憲君主の道をはずれていたとも言える。昭和天皇も戦後になって、この時と二・二六事件の時の2回だけ「立憲君主」の枠をはみ出していたことを認められている。
◆国益優先という常識
しかし「御前会議」で戦争続行派も「憲法違反だ」と異を唱えることはなかった。戦後においても「違憲だからあの決定は無効だ」などという声は皆無だろう。
決定し責任をとるべき首相がそれを放棄し、いわばゲタを預けたためだから、もとより「違憲」とはいえないとの説もある。
だが何よりも「憲法は国民の命や財産など国益を守るためにあり国益の方が優先する」という「常識」がまだ共有されていたからと見るべきだ。日本が壊滅状態となるのを防ぐためには憲法の枠をはみ出しても仕方ない。それが鈴木らの「決断」だった。
それから63年近くがたった今、大日本帝国憲法に代わる日本国憲法と日本の国益との間の相克や矛盾は深まる一方だ。昭和22年の施行以来61年もたち、当時は想定しなかった事態が次々と起きてきているのだから当然である。
直近の例でみても、日本の船が公海上で海賊に襲われても、海上自衛隊の護衛艦がこれを撃退することはできない。国会の衆参ねじれで、ガソリン代が上がったり下がったりし、日銀総裁が決まらずに国際的信用を失墜させても二院制という憲法の枠がある以上、やむを得ないのだ。
だが、国益を守る上での憲法の不備がこれほど明らかになっているのに「憲法違反でも国民を守ることを優先していい」とか「憲法を改正すべきだ」といった声は国会にも国民の間に起きてこない。まことに不思議な話だ。
◆「笑ふべし」との冷徹さ
根底にあるのは、憲法を国益以上に大事なものとしてきた戦後の「唯憲思想」とでも言うべきものだろう。「国は滅んでも憲法を守れたらいい」という倒錯した論理にもなりかねない考えだ。
あの戦争で心身ともに深く傷ついた日本人は、米国の素人の手になる新憲法を「これで永遠に平和に生きることができる」と思いこみ受け入れた。世界でも例をみない「憲法記念日」という祝日が制定され、まるで「聖典」のようになっていった。国民に重いものとしてのしかかり、「憲法は国益のためにある」という常識が忘れ去られてしまったのだ。
しかしそんな中で、ひとりだけこの憲法を突き放していたのが作家の永井荷風だった。新憲法施行の昭和22年5月3日の日記に、こう書いている。
「米人の作りし日本国憲法今日より実施の由。笑ふべし」
恐らく、この憲法が日本のキバを抜き、二度と立ち上がらせないという米国の国益に沿ったものであると見抜いていたのだろう。今の憲法論議に必要なのも、荷風のように憲法を突き放して見る冷徹さのような気がする。