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◆真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 <1>



 (世界日報 2008/6/16)


樺太の悲劇(1)

ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民  捨て身で娘たちを守る老女も

稚内公園に立つ「氷雪の門」。氷と雪の厳しい環境で生き抜いた人々を象徴する女人像と、樺太の方向を指す8メートルの望郷の門から成り、樺太で亡くなった人々の慰霊と望郷の思いが込められている
 札幌駅から特急に乗り換えて五時間半、稚内を訪ねたのは四月の下旬だった。ミズバショウの群生が遅い春の到来を告げていた。だが、“風の町”稚内を歩くとまだまだ肌寒かった。
 先の大戦で、国内で住民の集団自決が起きたのは、慶良間諸島のほかに樺太でも起きている。戦時中の集団自決の実相に迫るべく、この地を訪ねたのであった。

 両者は、いろいろと対照的である。地理的には、慶良間諸島と樺太は、日本の両端に位置する。米軍が本島に上陸した昭和二十(一九四五)年四月一日から沖縄戦は本格化するが、それ以前に、慶良間諸島の集団自決は起きた。戦争は日本がポツダム宣言を受け入れ、八月十五日で敗戦となるが、樺太の住民にとっての「戦争」は、その前後から始まった。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻したためだ。

 樺太の地は、アイヌなどの先住民族と日本人とロシア人が雑居する形で明治維新を迎えた。明治三十八(一九〇五)年のポーツマス会議で、北緯五〇度までが日本領となり、二年後にはコルサコフに樺太庁が発足。鉄道、道路、港などのインフラが整備され、漁業、林業、石油、石炭開発などで活況を呈した北の大地に、多くの日本人が移り住み、終戦時は約四十五、六万人までに膨れ上がっていた。

 そこにソ連軍が空、陸、海から一気に侵攻。住民は一瞬にして大混乱に陥ったのである。

 各地でわれ先に港に向かい、避難しようとする人々の群れ。そこに容赦なく、ソ連軍が攻撃した。樺太の北部、恵須取―内路間にある百六キロに及ぶ内恵道路にも、避難民は太い川のようになって南下したのだが――。

 <この避難民の流れをソ連機がしばしば襲った。多くは婦女子の列と知っての威かくとみられたが、逃げまどう人の群れに無差別な機銃掃射や爆撃が加えられたこともあり死傷者がでた。悲惨なのは機銃弾で死んだ母親の死体にすがって泣く幼児。子供を失って発狂する母親。若い人たちについて歩けないと自ら離れていき死を待つ老人。取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼な子を断崖からつき落としたり、死が待つばかりの草むらにえい児を捨て、わずかなミルクを残していく母親などもいた。そして絶望的な逃避に疲れ、劇薬をあおり、手榴弾を胸に抱いて一家が自決する惨劇も相次いだ>(樺太終戦史刊行会編纂『樺太終戦史』より)

 日本軍は戦闘を避けようと、真岡市街でも住民の中にかなりの死傷者が出ていることを知りつつも、交戦を禁じ、停戦のための軍使派遣を命じた。

 八月二十日朝、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近にいるのを確認、白旗を掲げた上等兵を先頭にして村田徳兵中尉が軍使となり、護衛兵とともに交渉に向かった。だが、ソ連兵は日本兵の武装を解かせ、軍犬を電柱に縛り付けるよう要求。その上でいきなり銃口を日本兵に向けて乱射したのだった。白旗を掲げた豊原市の駅前に殺到した避難民にも、ソ連軍は銃弾を浴びせた……。

 こうして、わずか二週間で住民・兵士ら約四千三百人が亡くなった。この間に、七万八千人が内地に引き揚げることができた。だが、樺太に残された人は殺されるか、占領下で強制労働をさせられるか、遠くシベリアに抑留され、二度と日本の地を踏めなかった人々も数多い。幸い命が助かった人も、それまで汗水流して築き上げた土地財産の一切をソ連に奪われてしまったのである。

 ある会社員は、妹を陵辱しようとするソ連兵を制止しようとして銃殺された。婦女子らが仮泊していた真岡町の小学校に、ソ連兵数人が押し掛けて「マダムダワイ(女を出せ)、マダムダワイ」と叫んで、女性を連行しようとした。その時、七十歳くらいの老女が立ち上がり、「私が行ってやる。ほかの者には手を触れるな」と兵士を外に追い出した。老女は輪姦(りんかん)され、翌日、死体となって発見された。

 入院していた重病者看護のために最後まで大平神社の防空壕(ごう)に踏みとどまっていた看護婦二十三人の近くにも、ソ連兵が迫った。八月十六日のことだ。避難する内恵道路にも既にソ連兵が立ちはだかっていることを確認した高橋ふみ子婦長は、「この若い看護婦たちを無事な姿で親元に帰せないならば、死を選ぶことよりほかにない」と覚悟。用意していた青酸カリを注射または飲み干した。致死量に足りず十七人が蘇生(そせい)したが、六人は死んでいった。


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◆樺太の悲劇(2) (世界日報 2008/6/17)


相次ぐ家族の自決、心中   遺族が自問「愛の極致とは」


 樺太の悲劇を書いた著作の中でも、圧巻は映画「氷雪の門」の原作といわれる、金子俊男氏の『樺太一九四五年夏』(講談社、昭和四十七年)である。樺太・豊原市生まれの金子氏は、「北海タイムス」社会部長、編集委員などを務め、同紙に「樺太終戦ものがたり」を一年にわたり連載。この原稿が作家、吉村昭氏の目に留まり、単行本となった。

 八月九日朝のソ連対日参戦から、二十二日の停戦交渉前後までの約二週間の、樺太でのソ連と日本(軍だけではなく義勇隊・民間人)との戦闘の状況を克明に描いたものだが、四百人を超える関係者の手記とインタビューを合わせて、極めて密度の濃い戦場記に仕上げられている。

 ソ連軍を目前にして、家族同士の心中や自決が相次いだ。真岡中学の体育教師、平野太さんは、妻の真砂子さん(当時43歳)と四男、剛男君(同9歳)が、隣家の江村孝三郎少尉(同55歳)一家五人と共に自決したことを知らされる。収録されている平野さんの手記を紹介する。

 周囲の人の話では、江村少尉は家族四人と、平野さんの妻子に目隠しをさせて、首をはねた後、最後に自ら仏壇に面して切腹したという。知人の校長らは、その自刃を、口を極めて褒めた。

 平野さんは、綴(つづ)る。

 〈私としては、相手がソ連兵でなくてよかった、日本軍人、しかも長い間の友人によって、その一家と死を共にしたのだから、何もいうことはないと思った。ただ、なんとかして船で引き揚げさせようと思って、叱って区長のところへやったことがこうなったと思うと、悪いことをした、私が軽率であったとくやまれてならなかった〉

 死後、一カ月以上が過ぎて、道路脇に埋められていた遺体を掘り出した時の平野さんは、江村少尉の行動を尊敬する一方で複雑な心境でもあったと告白する。

 〈思考、意志という点でおとなの江村少尉と妻たちは、ある覚悟があって切られ、自決したのであろうが、子供たち五人は目隠しをされ、おそらくは合掌し、お題目をとなえながら首をはねられたのであろう。そのときの気持ちを思いやれば、私には名状すべからざる悲惨な悲しみがわいてくる。

 悲しかったであろう子供たちの気持ちを想像するたびに、思い起すたびに、じっとしていられないような気持ちになり、夜も眠りつけないことが、いまなおしばしばある。しかし、私よりももっともっと不幸な人びともあったであろうからと、忘れる努力をする以外にはない〉

 平野さんの手記は、江村さんの隣の官舎にいた同中学の軍事教練の助教官や柔道の教官、英語の鴨志田義平教諭の一家六人の自決などにも触れられている。鴨志田教諭は、外国語学校の出身で、かつて樺太国境警備の巡査だったが、敷香中学開校のときに英語教諭として迎えられ、後に真岡中学に移ったという。

 平野さんは、江村少尉の自決と、この英語教諭の自決を比較して、こう述べる。

 〈江村少尉の自刃を軍人のかがみとしてほめるのは当然であるが、英語教諭一家の自決については、周囲の人びとのほとんどが、あまり語らなかった。なぜだろう。私は一抹の寂しさをそのことに感じたものである。両家とも、子供たちを思う愛情が死に結びついたものであろう。そうであれば文官であった鴨志田先生の精神をももっと称揚してよいのではなかろうか。ただ、なんとか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったかと当時思ったこともあったが、これは私のごとき凡人の考えであるかもしれない〉

 万に一つでも、愛する妻子の体に敵のソ連兵の指一本も触れさせないようにするためには、自決しかない。死をもって家族を守ろうとした江村氏や鴨志田教諭の決断と行動を、「愛の極致」と称賛する気持ちに偽りはない。

 だが、その半面、平野さんは自問する。何とか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったか、と。

 誰も、この問いに答えることはできない。平野さん自身も。ただ、明白なのは、平野さんの手記に、自決に関して軍の強制があったとか、日本軍への恨み言などが一行も書かれていないということだ。
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by sakura4987 | 2008-06-24 11:20

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