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◆【連載】沖縄戦「集団自決」から63年 真実の攻防 第3部<3>



 (世界日報 2008/6/18)


■樺太の悲劇③/真岡の電話交換手9人の自決/碑文から消えた「軍命」


 映画「氷雪の門」は、真岡郵便局の電話交換手九人が懸命に業務を行い、最後に青酸カリを飲んで自決するという実話を基に制作され、樺太最大の悲劇として知る人も多い。

 稚内公園の「氷雪の門」のそばには、「皆さん これが最後です さようなら」と刻まれた「殉職九人の乙女の碑」が建立されている。氷雪の門と同じく昭和三十八(一九六三)年八月十五日に公開されたものだが、その碑文には、次のような説明が添えられた。

 「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向った ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼってキイをたゝき『皆さん さようなら さようなら これが最後です』の言葉を残し夢多き若い命を絶った 戦争は二度と繰りかえすまじ 平和の祈りをこめてこゝに九人の乙女の霊を慰む」(原文)

 樺太ではソ連軍の無差別攻撃を受けて、小規模な集団自決があちこちで起きたが、いずれも本人の意志で決行されたものだ。ところが、この九人の乙女に関して、碑文は「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ」などと、「軍の自決命令」が死の原因であったと記している。樺太で起きた集団自決が「軍命」絡みで関連付けられた唯一のケースであろう。

 ところが、碑が公開されると、この記述を真っ向から否定する人が現れた。当時、彼女たちの上司であった、真岡郵便局長の上田豊三氏である。上田氏は、「北海タイムス」編集委員、金子俊男氏の取材に答えて「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかったから、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持で最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人たちを冒涜するのもはなはだしい」(『樺太一九四五年夏』)と怒りを隠さない。

 上田氏の残した手記によれば、昭和二十年八月十六日、豊原逓信(ていしん)局から女子職員の緊急疎開の指示が入り、上田氏は全員を集めてその旨を通知した。ところが、担当主事から、「全員が応じない」との報告。そこで、上田氏は直ちに女子職員を集めて、ソ連軍進駐で予想される事態を語り、説得した。だが、女子職員は「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかったという。

 上田氏は回想する。「私は感動した。しかし、その決意を肯定することはできない。ソ連軍進駐後はどのような危機が女子の上にふりかかってくるか、と思うと私は慄然となる」

 そこで、上田氏は緊急疎開の方針を変えず、小笠原丸が真岡に入港したらそれに乗船させる決意を固める。だが、同船入港前にソ連軍が上陸してしまう――。

 その上で、氏はこう綴(つづ)る。「あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一ヵ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできることかどうか。その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命以外にない」

 やがて、碑文から「軍命」が消えた。新たに次のようになった。

 「戦いは終わつた。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始つた。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向つた九人の乙女等は死を以つて己の職場を守つた

 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい『皆さんこれが最後です さようなら さようなら』の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた 戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む」(原文)

 碑文が取り換えられた日付は分からない。昭和四十三(一九六八)年九月初め、昭和天皇と香淳皇后が北海道百周年記念祝典にご臨席のため、北海道をご訪問。祝典の後の九月五日、稚内をお訪ねになった。浜森辰雄・稚内市長(当時)から「九人の乙女の碑」の説明を受けられた両陛下は目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされたという。その時のお気持ちを後にお歌に託されている。

 昭和天皇の御製

 樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる

 香淳皇后のお歌

 樺太に つゆと消えたる乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる


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◆沖縄戦「集団自決」から63年 真実の攻防 第3部 <4>

 (世界日報 2008/6/19)


■樺太の悲劇④/逓信精神貫いた乙女たち/「特攻隊のよう」と遺族


 戦時中の電話はダイヤル式でなく、交換台に相手の電話番号を告げて呼び出してもらうというものだった。それ故、ソ連軍上陸を目前にして、敵の動向や、住民への避難指示などの重要な情報の伝達、肉親との連絡などは、電話交換手の肩に掛かっていた。自決した真岡の電話交換手九人もまた、その使命の重要性に殉じたのである。その名とその時の年齢を次に記す。(敬称略)

 高石ミキ(24)、可香谷(かがや)シゲ(23)、吉田八重子(21)、志賀晴代(22)、渡辺照(17)、高城淑子(19)、松橋みどり(17)、伊藤千枝(22)、沢田キミ(18)

 碑文から「軍命」が消えたのは当時の真岡郵便局長、上田豊三氏の抗議も大きかったと考えられるが、複数の遺族が「公職だから職場を捨てて逃げるのは、わたしたちの責任感が許さぬ」「私は残らねばならない」と彼女たちが語っているのを聞いていることも大きな要因であったろう。

 最年長の高石ミキさんは殉職した前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、「いざとなったらこれがあるから大丈夫」と胸をたたいてみせた。青酸カリだった。既に覚悟を決めていたのであろう。若い女性が普通、手にしない青酸カリを彼女たちが持っていたことや当時の旧日本軍への嫌悪感などもあって、最初の碑文が作られたと想像されるが、稚内市役所には最初の碑文に関する文書も、変更した経緯を記した文書も残っていないという。

 札幌に住む川嶋康男氏は著書『九人の乙女一瞬の夏』(響文社、平成十五年)の中で、「壮絶な集団自決の背景には、『残留命令』の存在が横たわっている」と指摘、この残留命令を出せる立場にあったのは上田豊三氏であったと批判的に書いている。だが、その本の中で、上田氏から「残留交換手を募る密命」を受けていたという斎藤春子さん本人が、電信課に勤めていた妹とぶつかり、母の希望もあって引き揚げている。たとえ「残留命令」があったとしても、家族の希望を押しのけるほどの拘束力はなかったのである。

 また、角田房子氏は著書『悲しみの島 サハリン』(新潮社、平成六年)で、「九人の乙女たちが死を急いだのは、“貞操の危機”への恐怖にかられたためではなかったか。それも無理からぬことだが、同じ郵便局にいた交換手のうち三人は毒を飲まず、ソ連兵に乱暴な扱いを受けることもなく救出されている。酷な言い方だが、九人の交換手の自決はあまりに早かった」と書く。上からの「命令」と死を結び付けて見てはいないが、それにしても、一言も反論できぬ死者に対して、あまりにひどい表現ではないのか。

 札幌市内で、殉職した可香谷シゲさんの弟、可香谷優公さん(82)に会った。ソ連軍侵攻で家族はバラバラになった。豊原で入隊した優公さんはソ連兵に捕まり、「日本に帰す」と言われたが、シベリアに二年間抑留された。王子製紙に勤務していた父は、会社の防空壕(ごう)に逃れた。そこに手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれたが、幸い不発弾だった。母も、山中に身を隠した。兄は引き揚げ船で小樽へ。

 優公さんの自宅には、樺太から父母が持ち帰った貴重なアルバムがある。そこに、仲間と演芸会に仮装して出たり、友人とスキーを楽しむシゲさんの楽しげな姿があった。姉弟は、ともにスポーツ万能。優公さんは、今でも野球選手として活躍している。

 「姉はとても優しく、一度も叱(しか)られたことはありませんでした。もちろんケンカしたこともないですね」と、優公さんは懐かしく振り返る。

 「殉職ということですが、若くして亡くなった姉は、片道だけのガソリンを積んで、愛する者たちに別れを告げて飛び立った特攻隊と同じですよ。だって、おっかなかったら、逃げ出していたでしょう。自分たちの覚悟で交換台に最後まで残ることを決め、後は覚悟の自決を選んだのでしょう」

 映画「氷雪の門」で、女優の仁木てるみがシゲさん役を演じた。そして昭和四十八年、九人の乙女は勲八等宝冠章を受けた。シゲさんの母、アサさん(当時83歳)は「シゲもお国のために働いたことがようやく分かってもらえて本当によかった。シゲもきっと喜んでいるでしょう」と涙を浮かべて、新聞記者の取材に応じている。

 九人の乙女たちは、沖縄のひめゆり部隊になぞらえられて、「北のひめゆり」とも呼ばれる。だが、彼女たちの短くも清廉な青春を綴(つづ)った書物がそれほど出版されていないのは、残念で仕方がない。
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by sakura4987 | 2008-06-24 11:21

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