◆絶望よりも反省よりも『拝啓マッカーサー元帥様』
(日経BP 2008/6/23)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080623/163401/
~我々は権力者を信じることで、何かを忘れようとする
『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』袖井林二郎編、岩波現代文庫、1100円(税抜き)
1945年8月30日、厚木飛行場に専用機で降り立ったダグラス・マッカーサーは丸腰にコーンパイプを口にくわえるといった出で立ちで、悠然とタラップを降りた。
ポツダム宣言を受諾したとはいえ、降伏文書にまだ調印していない余燼燻る敵地へ降り立つその姿は入念に演出されたものであり、その余裕ぶりは新たな支配者の自信の現れであった。
以後、約6年に渡り、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として、日本に絶大な権力をふるったマッカーサーだが、朝鮮戦争の最中の突然の解任にあたっては、マッカーサーより偉い人間がいることに日本人は驚愕したという。
絶対的権力者として君臨し、民衆と親しく接することのなかったマッカーサーだが、赴任直後からGHQの奨励もなく、彼宛の手紙が堰を切ったように送りつけられるようになった。重要と思われる手紙は翻訳通訳部隊により全訳され、マッカーサーのもとに届けられた。彼は過密なスケジュールの合間を縫い、ほとんど目を通したという。
本書は、そんなマッカーサーへの手紙を紹介しながら、当時の日本人の心性を探ったものだ。
手紙の主は農民から学生、はては元右翼の巨頭でA級戦犯容疑者、公職追放中の政治家、さらには工場労働者、県会議長、教師、医師とその職業、階層を選ぶことはなかった。日本を去るまでの間、マッカーサーに宛てられた手紙はおよそ50万通。そのほとんどがマッカーサーに対する賛美と感謝の声であり、批判は少数だったようだ。
編者である袖井が実際に目を通したのは、50万通の手紙のうちの1、2%で、本書に紹介されている手紙の内容はといえば、松茸を送るから受け取って欲しい。就職の斡旋を頼みたい。マッカーサー元帥の銅像をつくりたい。村内のもめ事の裁決を願いたい。挙げ句のはてには、原文は存在しないが、「あなたの子供をうみたい」といった内容までがあったという。袖井はこれらの手紙を、マッカーサーへの感謝や贈物、献策といった13項目に分類している。
つい先日まで日本人にとっては、「鬼畜米英」の象徴だったマッカーサーだが、「世界中の主様であらせられますマッカーサー元帥様」「吾等の偉大なる解放者マッカーサー元帥閣下」「広大無辺の御容相」と、北の将軍様を笑えない綺羅を飾った言葉で称えられた手紙も数多い。
ところで、占領下のドイツの軍政責任者には、マッカーサーに寄せられたような熱烈な声は聞かれなかったという。
袖井は日本人の高揚ぶりをこう指摘する。
■拝めさえすれば誰でもいい!?
〈権力者と対決することなく一体化するというこの行動様式は、占領期に初めて見られたのではなく、他に逃げ場のない島国日本に、あるいは封建的集落という小宇宙に長い間生きてこざるを得なかった日本民族にとって、ほとんど本能化していたのではないか〉
たとえば、こういった手紙がある。
「毎日御軍務に御精励の御由承りまして、私共は心より御祝賀申し上げます」「此の様な贈物よいものやら、悪いものやら、若し悪いと御考へ下されればおすて下さい」
激務の身を案じてのご機嫌うかがいや贈り物に添えた文面には、権力者へのおもねりというには、あまりに素朴な庶民の心根がうかがえ、そのおずおずとした口調は微笑ましい。
だがしかし、中にはそうしたプレゼントでは真心を表すことにならないと考えたか、このように書き付ける人々もいた。
「日本之将来及ビ子孫の為め日本を米国の属国となし被下度(くだされたく)御願申上候」「私は貴国が枉げて日本を合併して下されることによりてのみ日本は救はれるのであると確く信じます」
権力者と対峙しない姿勢が袖井の言うように本能なら、そこに善悪是非は問えない。とはいえ、敗北の痛手を直視することなく、傍観者の態度に移行できてしまえるといった、微塵も反省のない態度が何に由来するかは問えるだろう。
〈(日本占領は)自国がしかけたアジア侵略の戦争に敗れた結果に他ならなかった。だから大義は占領する側にあると、ほとんどの日本人ははやばやと納得したのである。その態度を『転向』という言葉で呼んでもいいだろう〉
積極的に膝下に入ろうとするほどの彼らの感激の出所は、「敗戦直後の日本人が『占領』のイメージを日本軍が中国とアジアで行なった野蛮な占領の経験にもとづいて作りだしていた」。
つまり、当然報復があると思えたが、実際に行われた占領政策は望外のことで、彼らにしてみれば旧敵の施す民主化は、寛大な処置にほかならず、それに驚き、しばし呆然とし、感動もしたのではないか。だから、属国・合併も厭わない。
自らの植民地支配の経験からすれば、属国にするとは、言葉を禁じ、文字を奪い、名を改め、収奪を合法とすることだが、アメリカはそういうことはしないらしい。新たな大義は自由と民主主義を標榜するのであれば、なおさらそれを拒む理由はなく、合併はむしろ善いことだ。その理屈からすれば、転向は肯定され、非転向は頑迷さの表れになる。
しかし、それでも疑問は残る。いくらなんでも、その転向ぶりは無節操すぎはしないか、と。
「マッカーサー元帥ノ万歳ヲ三唱シ併テ貴国将兵各位ノ無事御進駐ヲ御祝ヒ申上ゲマス」と、敗戦から三週間後、速達で送りつけるといった具合にマッカーサーをいち早く称えた人らは、かつて「天皇陛下万歳」を叫び、醜の御楯として死ねよと唱導していた立場にいたものも少なからずいた。
確か一億玉砕まで誓った戦争だった。神国は不滅であり、必勝不敗は揺るがせない国是だった。
だから総力戦の敗北は、帝国臣民を深い挫折へと追いやったはずであり、日本の滅亡を認めないものは、決起したはずだ。
だが、現実はどうかといえば、ひとりのパルチザンも生まなかった! その事実に気付くとき、マッカーサーに対する見返りを求めない庶民の善意溢れる手紙も、実は相手が誰であれ、拝跪できさえすれば構わない質の純朴さではないかと思えてくる。
それは新時代に合わせ拝む本尊を替えた議員、共産主義打倒のためアメリカ軍のパイロットに志願する元特攻隊員、「アメリカのスパイにさせて下さい」と嘆願する人にも見られる節操のなさと同列であり、つまりは現実に関する検討が皆無なのだ。
あの戦争は幻だったのかというくらい、かつての立場にこだわりがない。それを権力者に対決しない本能というのでは、説明になりえない。マッカーサー宛の手紙を読むと、いったい誰が主体的に戦っていたのだろうと思えてならない。
■我々が今、忘れたいのは何か
A級戦犯容疑者の児玉誉士夫は、朝鮮戦争勃発にあたって秘策を献ずるつもりか、こう綴る。
「東洋人を理解できるのは東洋人でありますから、東洋人を敵にまわしてうまくやれるのも東洋人でなければならない」とし、自分の信頼すべき友人たちを、アメリカ軍の一員として韓国に送り、「前線の兵士たちと協力できるよう」許可願いたいと陳情を行う。
ここには日中戦争の泥沼化への反省など微塵もない。手紙の力点は、「過去に国粋主義者であったものの存在が、アメリカにとって決して脅威ではないことの十分な証明となるでありましょう」と後段の、自分を高く売り付けようとする魂胆にあるだろう。
しかも、国粋主義者が自ら「過去に国粋主義者であったものの存在」などとうっかり転向を書き連ねても、それが否定の意味を本人の中でなしていない。
マッカーサーに宛てた文には、こうした痛痒のなさが通奏低音のように響く。健気さとナイーヴさと卑屈さのプリズムのようだ。
マッカーサーの離日後、彼の功績を讃える記念館の創設が計画され、銅像を建てようと募金運動も始まった。しかし、アメリカ上院公聴会でマッカーサーの「日本人はまだ12歳だ」という旨の発言を機に、その熱狂ぶりは急速に鳴りを潜めた。人々は夢から醒め、高度経済成長の達成という別の夢へと没入していく。
敗戦から63年。本書に紹介されているような同胞の熱狂ぶりは、いまとなっては直視したくないだろう。時代の昂りがさせたものに過ぎないと思いたくもなる。
だが、マッカーサーへの熱烈な賛美は、過去を忘却したい心情と表裏一体だったと知れるとき、では、「日本人は何を・なぜ忘れようとしたのか?」が浮かびあがってくる。経済成長という別の夢も醒めてしまった。かつて忘れ去ろうとした記憶は、いまなお宿痾として残っている。そのことに本書は気付かせてくれる。