◆高山正之氏の『変見自在』 若葉空軍
(週刊新潮 2008/7/10)
日本が支那をよろしく指導し力を合わせるようになれば、白人国家はアジアにもつ権益つまり植民地を失うと、F・ルーズベルトは考えていた。
だから支那を日本から引き離し、反目させる、というのが彼の戦略だった。
支那人は無能なくせに虚栄心が強い。それで強欲というしょうもない性格をしているが、それを理解すれば操るのは簡単だ。
で、宋美齢を米社交界に入れ、蒋介石には偉大な支那が日本如きにつき従うのかとけしかけた。
蒋は考えた。日本と組んでアジアのために白人列強と戦ったところでどれほど勝ち目があるのか。
彼は迷わず英米側に寝返る道を選んだ。そしてカネと引き換えに南京大虐殺とか日本を陥れる様々な嘘を捏(こ)ね上げた。嘘は支那人の特技だ。それが役に立ったわけだ。
ルーズベルトは蒋に寝返りの証拠として日本との全面戦争をやれと命じた。
ただ蒋介石は空軍を持っていなかった。対日戦で大いなるハンデになるから、それは米国が全面支援することにした。
最初に飛行教官を買って出たのは退役飛行士のロバート・ショートだった。
彼はボーイング社製の複葉軽爆を売り込みがてら南京に単機、飛んだ。ちょうど第一次の上海事変のころで、彼は空母「鳳翔」から飛び立った三式艦上戦闘機の一群と遭遇した。
彼は迷うことなく攻撃に出てあっけなく撃墜された。
これが日本海軍機による初の撃墜記録になる。
彼はなぜ無謀な空戦を挑んだのか。ジョン・ダワーの「人種偏見」によると、当時の英米では日本への嫉妬から「彼らは背負われ、揺すられて育ったから内耳管に欠陥がありバランスがとれない」「近眼で射撃も急降下爆撃もできない」「技術不足でろくな航空機をもっていない」といった偏見がまかり通っていた。
そんな相手だ。全機撃ち落としてやるかと彼は思ったのだろう。白人優越主義が生んだ喜劇といえる。
しかし米国は彼の死から何の教訓も得なかった。
米国はJ・ジョエットを次の教官として送りこみ、百人ほどの支那人パイロットの養成をしたが、供与した機材はカーテイス・ホークⅡなどの複葉機だった。
対する日本はとっくに低翼単葉の三菱九六式艦上戦闘機を投入していた。
米国は第二次上海事変の前にクレア・シェンノートを軍事顧間に派遣し、機材も日本並みの低翼単葉のノースロップⅡEを入れて増強を図った。
だ問題は支那人パイロットの技量だった。
シェンノートと宋美齢が立ち会う中、夜間攻撃から帰投する支那軍機の様子が「シエンノートとフライング・タイガース」(吉田一彦著)にある。
「一番機は滑走路を駆け抜け水田に飛び込み、二番機は地上で宙返り、爆発炎上した。四番機は消火に急行した消防車に激突した」。結局、十一機のうち五機が着陸に失敗し、四人の操縦士が死んだ。
そのシェンノートの指揮で五機のノースロップ機が上海・黄浦江に入った巡洋艦「出雲」の爆撃に出た。
四発の爆弾が落とされたが、一発は黄浦江をのぼる汽船に当たって船は沈没する。
残りは外灘(バンド)のパレスホテルや娯楽場「大世界」の前に落ちて千数百人が死傷する惨事になった。
まともに着陸もできない支那人パイロットの技量ではしょせん急降下爆撃などは無理だった、ということだろう。
ところが、この惨事について英米の新聞は実に奇妙な論評をしている。
例えば「米国人記者が見た戦前のシナと日本」の著者J・パウエルは「細心の注意を要する爆撃配置につく前にジヤップに攻撃されて」負傷した支那人パイロットは帰投するのに邪魔な爆弾を途中で落としたらそれが「込み合う大世界前の広場を直撃した」と。
未熟な支那人操縦士が細心の注意を払っているときにそれを日本側がかき乱した。責任は日本側にあるという書き方だ。
それなら若葉マークを付けて飛べばいい。
先日の情報誌に支那が米本土にも飛べるステルス爆撃機「轟8型」を開発したとあった。
あまり怖さを感じないのはなぜだろう。