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◆【昭和正論座】京大教授・会田雄次 昭和52年8月15日掲載



 (産経 2008/8/17)


 ■純粋人は圧政の培養体


 ≪■ビルマ戦線の異常体験≫

 昭和二十年八月、私は歩兵第百二十八連隊第五中隊の一等兵として、ビルマ南西端、シッタン河の河口の第一線陣地にはりついていた。中隊といっても中隊長一人小隊長一人、兵十七、八人、ビルマ人兵補一人、軽機一挺だけである。殆んどマラリアとアミーバー赤痢にかかっていて、戦闘力などというものは皆無に等しかった。前方は一面の沼沢地。そこに包囲されている策集団(第28軍)数万人が全滅されるすさまじい銃砲声が聞えるがどうしようもない。シッタン河にはおびただしい日本兵や看護婦さんの死体が流れてくる。

 私たちはこの二年間、砲爆弾と飢餓と疫病を相手に戦って来た。後退戦の混乱によってたまたま遭遇するということ以外、敵兵の姿はおろか、敵の所在も判らない戦いというのがふつうの姿だった。要するにどこからともなくやたらに砲銃弾が飛んできてみんな死んで行く。それにどのていど耐えられるかという戦いだったのである。戦いではなく屠殺(とさつ)に耐えているだけといった方が正しいかも知れない。

 ビルマは最終的には放棄ときめられたようである。それにしても私たちは十九年春、北東ビルマで戦って以来、補給らしい補給は全く受けていない。例えば靴は一足ももらえず兵士の半分ぐらいは裸足である。私のボロ靴は大小不ぞろいだが、それも戦死者の足からだまっていただいてきたものだ。食糧はずっと自給、つまり掠奪だった。

 ≪■暴走する「精神主義」≫    

 ここで終戦となって私たちはどうやら全滅せずに済んだのだが、この二年の戦いで私が骨髄まで思い知ったのは日本軍の精神主義の許し得ぬ馬鹿ばかしさだった。こういうと、今さらそんなことお前にいわれなくても誰でも知っている。百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に匹敵するというあれだろう。それを百発百中はあり得ないとか、相手がもし百発百中でなくたとえ百発二中でもどうにもならないというつもりだろう。

 それを日本人が反省したからこそ技術革新による高度成長がとげられたのではないかといった反論が出るだろう。いや、やはり精神は重要視すべきだ。ベトナム戦でアメリカが敗退したのはそのためだといった意見が出るかも知れない。

 それぞれの反論に対して私はたくさんいいたいことがあるのだが、私の今の主題はそこにない。私が痛感した精神主義のおどろおどろしさというのは技術的練磨のことではない。またその方法が旧日本軍国主義による反合理的強迫だったと指摘するのでもない。もっと一般的な、この精神主義の暴走の根本的性格についてのことである。

 ≪■利用される排他的信念≫  

 千磨必死の訓練それ自体がいけないわけでは毛頭ない。芸術だって学問技術だってスポーツだって、いや、おしなべて人生のすべてに懸命の努力が必要なことは勿論だ。問題はその努力の要求が、形而上的根拠、つまり宗教や道徳や正義の立場からなされ、それが当為としてすべての人に強制されるときである。勝つためには練習しなければならぬ。だが、それが母校の名誉のため、国の威厳のためにはとなり、単に選手だけではなく、全生徒、全国民が必死の応援をやるべきであり、いいかげんな応援をやったり無関心であることは許せない、非国民、国賊だという風になったらどうなるのか。

 恐るべきは、人間集団が一つの目的を達するために排他的信念に燃え、それを阻むもの、それにくみしないものを、絶対悪として処断しようとするときである。

 ふつう、そうなるのはカリスマ的指導者が出現し、人々の不平不満をたくみに利用し、一種の催眠術的操作を加えて集団をひきずって行くからだという風に説明される。それはそうだが、その場合、集団狂気の核になる心酔者という存在である。集団が巨大になればなるほど、この心酔者の役割は大きくなる。

 それを知る指導者は大きくさせようと企て、その結果、集団を暗黒地獄の中に陥れる。小集団ならともかく、例えば、ドイツとか日本とか中国国民とかいう巨大な集団の全員が催眠術にかかるはずがない。そのように見えるのはこの心酔者が陰惨で強力な権力を振い、その威を借りる便乗者と一緒になって、多数者を「唖者になった人々」に化してしまうからだ。そのことは四人組の圧迫から一応解放された中国大衆の行動を見てもわかろう。

 ≪■「善人」が集団を危殆に≫  

 この心酔者である、問題は。かれらは悪人ではない。便乗者でもない。それはひたすら純粋さ、一途さを求めて生きる人々である。反省を重ねる人間である。すくなくとも当人の主観の世界では自分をそうあろうと努力している人間なのである。それが何の権力も持たず、党派もつくらず、自分の生き方を守っているだけならよい。だが、その人々が、自分の生き方を他の人々に強制し、他の生き方を排除することを要求するようになればどうにもならない。その社会は地獄に変わる。なぜそうなるのか。

 生物はすべて矛盾の総合体である。純粋なものなどあり得ない。種としての保存本能と個体保存本能とが第一矛盾する。そういう事実を直視せず、ひたすら純粋を求めて突進する人間というのは、小児でなければ一種の精神病質者にほかならぬ。旧日本軍は兵士全員に忠勇無双を要求したが、その要求を凄惨(せいさん)なものにしたのは軍の支配者たちではない。むしろ若い下級将校や下士官兵の中に多数存在した心酔体質者のせいだった。私はそれを思い知らされたのである。

 こういう心酔体質者、ある皮肉な学者の表現によれば狂信志望者は、民族によってちがうけれど、いつも大体十人に一人はいるそうである。予備軍を入れると二割になるという。こういう人々の発言力が過大にならぬよう留意することが民主主義を守る上で最も大切な条件の一つになるだろう。この人たちは「善人」で社会事業などに見事な働きを見せることがある。そういう善人であるだけに人の同情や尊敬を集め、集団を危殆(きたい)に陥れる公算があることだけを私たちは現時点でとりわけ肝に銘じておく必要がありそうである。(あいだ ゆうじ)

                   ◇

 【視点】戦争に限らず、極限状態の現場に身をさらした人の言葉は重い。会田雄次氏は戦時中に応召兵としてビルマ戦線にあり、銃砲声を聞きながら疫病と闘った。英軍の捕虜収容所の2年間を、『アーロン収容所』として著し、西欧ヒューマニズムの限界を描いた。一読して、支配する者と支配される者の人間性の乖離(かいり)に暗然とした記憶がある。

 今回の論稿では、日本軍の精神主義に潜む集団的狂気の構造を解き明かしている。それは国家目的のために指揮する軍幹部よりも、その周辺で忠義に純度を求める心酔体質者の存在にあるとする。彼らの狂気が集団を破壊し、方向を誤らせると警告している。(湯)

                   ◇

 産経新聞「正論」欄の35周年を記念し、当時掲載された珠玉の論稿を再録します。
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by sakura4987 | 2008-08-19 16:04

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