★★★ 日本再生ネットワーク 厳選ニュース ★★★

sakura4987.exblog.jp
ブログトップ

◆【君に伝えたい、日本。】ジャーナリスト 櫻井よしこ


 (産経 2008/8/15)


 ■武士道に徹した柴五郎

 明治33(1900)年の義和団事件における元会津藩士、柴五郎の活躍は、これまでも多くの日本人が語り継いできたに違いない。

 暴虐の限りの排外主義を以(もっ)て、キリスト教徒をはじめとする外国人を虐殺し、破壊活動を続ける義和団と、水面下で義和団に通じていた清国政府を前に、当時、各国の在外公館員とその国民らは北京での籠城(ろうじょう)に追い込まれた。

 このとき柴五郎の統率する日本軍は、刮目(かつもく)の働きで暴徒集団を退け、北京籠城を解いた。その後、各国軍隊の軍政区域が定められたのだが、今度は逆に、中国人への迫害と略奪が発生し続けた。

 ただひとつの例外は柴指揮下にあった日本軍政区のみ。軍紀厳正で略奪も行われず、中国人民も厚く保護されたために、「他の区域から日本区域に移住してくるものが多かった」と『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書)に記されている。

 軍人、柴五郎の存在が、明治維新で開国したばかりの後進国日本の名を世界に高らしめたのだ。だが、柴五郎は単に優れた軍人だっただけではない。日本の歴史に名を刻み、後世の私たちに深い教えを残した多くの先人たちのなかでも、柴翁(おう)の生き方は、とりわけ深い感銘を与える。

 翁は折り目正しい会津の教育を受け、その教育の粋を保ったまま生涯を貫いた人物だった。会津藩は己の利益を離れ、幕末、よく徳川家に仕え、大政奉還を支え、日本の新時代建設を念じたにもかかわらず、賊軍と貶(おとし)められた。

 会津藩の悲劇は戊辰(ぼしん)戦争で終わったわけではない。戦いのあともなお長く、会津藩と藩士らは辛酸を嘗(な)め続けた。前出の『ある明治人…』にその体験が詳述されており、到底涙なしには読み通せない。

 柴一族の想像を絶する体験は、「一藩をあげての流罪にも等しい」不条理な処罰ゆえであり、日本近代化の歴史における汚点である。近代日本史の評価の土台に、こうした負の側面の検証を含めて初めて、公正なる歴史観が育(はぐく)まれると痛感するものだ。

 柴翁は、しかし、政治の不条理を心に刻みつつも、生粋の会津人として、自らの体得した折り目正しい教育のとおりに、その生涯を貫いた。それはまさに、恥ずべき振る舞いのないよう厳しく自らを律し、どんな時にも公正なる生き方を崩さないという、武士道に徹した生き方だった。
[PR]
by sakura4987 | 2008-08-19 16:09

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987