◆ふたたび南洲翁の志を
【君に伝えたい、日本。】京都産業大教授 ロマーノ・ヴルピッタ
(産経 2008/8/29)
留学生の時から、私は西南の役に関する錦絵を買いあさってきた。薩摩軍の色鮮やかな鎧(よろい)と官軍の地味な洋風の制服のコントラストが印象的だったからだろう。或(ある)いは、そのコントラストが日本の行方を暗示したからだろう。
その絵に登場する西郷隆盛は、まさに豪傑である。賊軍の首魁(しゅかい)であっても、当時から英雄視されていた。やはり、大西郷は日本史で珍しいほど魅力的な人物である。しかし、彼の人気は、どうして現在まで根強く続いているのだろうか。
日本文学研究の権威、イギリス人のアイバン・モリスは、労作の『高貴なる敗北』で、西郷を含めて日本武尊(やまとたけるのみこと)からカミカゼ特攻隊まで、悲劇の英雄たちを物語ったが、敗北者に同情する気持ちが正義への欲求から生まれてくると見ていた。
つまり、社会の「和」を維持するために不正を容認せざるを得ない日本人は、敗北者を既成秩序に抵抗して義に殉じた英雄として尊敬する。この説明は説得力があるが、西洋人の合理性が感じられる。
モリスの発想は、浪曼(ろうまん)派の保田與重郎の「偉大な敗北」と同じであるが、保田は日本的な感覚で、むしろ悲劇の美を強調したのである。
しかし、南洲翁の場合、正義の志士に対する憧憬(どうけい)が働いていることを否めない。彼が唱えた「新政厚徳」は東洋の徳政の理想そのものである。
国を治めるために、為政者はまず、個人として正道を踏まなければならない。正道とは、「身を修するに克己を以て終始す可(べ)し」と西郷は断言した。私欲を抱かず、公に奉ずることである。
西郷は公的な道徳の根源が私的な道徳であると信じていた。道徳と政治との一致は東洋の伝統であったが、近代の精神は、公私の区別の意識であり、公的政治世界と私的道徳世界とは無関係のものとされている。
この考え方は戦後になって日本にも浸透したが、為政者は昔の伝統をある程度に守ってきた。
しかし、今になってその名残も完全に消え去ったのである。
日本が行き詰まってしまったのは、そのせいではないか。
西郷が言うように、国家の大業を計るために、「生命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人」は必要である。そんな人材が現れない限り、日本の危機を打開することは不可能だろう。
経済がすべてを支配する風潮に左右されている今日の日本に対して、西郷が具現化したあの美しい理念に戻れ、と念願するのみである。
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【プロフィル】ロマーノ・ヴルピッタ
1939年イタリア・ローマ生まれ。61年ローマ大学法学部卒。イタリア外務省入省。72~75年ナポリ東洋大学院日本文学担当教授。75年欧州共同体委員会駐日代表部次席代表。著書に「不敗の条件-保田與重郎と世界の思潮」など。