◆11.8毎日風を読む。五百旗頭真論文
ネットのブログにあったものですが、原文は未確認です。
但し、文末の部分は正論1月号での引用された部分と一致します。
(調べると、11月9日と11月8日がありますが、
問題はないでしょう)
正論1月号の濱口和久「防衛大を蝕む五百旗頭イズムの大罪」には、五百旗頭・防衛大学校長の辞任に値する理由が数々、指摘されているが、それよりも驚かされたのは11月9日毎日新聞の五百旗頭コラムの文末である。
「その中での遺憾な局面が、あの戦争の時代であり、今なお誤りを誤りと認めることが出来ずに精神の変調を引きずる人のいることであると考えている。」
これは、自分の歴史観とは反対の持ち主は「精神の変調を引きずる人」つまり精神病者と決め付けている。
大東亜戦争は侵略戦争ではないと考えている人は精神病者だと断定している。
これは、アチラの用語で言えば、人権侵害の最たるものであろう。弁解の余地は全くない。
又、異論を許さないということであり、思想信条の自由、言論の自由をも否定するに等しいことである。
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■抗議先:防衛大学
〒239-8686
神奈川県 横須賀市 走水1-10-20
TEL:046-841-3810(代)
FAX:046-843-6236
メール:ndainfo@ad.nda.ac.jp
◆拉致なんて取り上げるのは日本外交として恥ずかしい
http://panther.iza.ne.jp/blog/entry/792051/
◆11.8毎日風を読む。五百旗頭真論文
http://t-n.blog.so-net.ne.jp/2008-11-16
◆毎日新聞 2008.11.9
風を読む 防衛大学校長 五百旗頭 真
文民統制の重要性
田母神俊雄航空幕僚長が、戦争の過去について政府見解と異なる主張を公募懸賞論文に展開し、政府によって更迭された。制服自衛官は政治的問題につき政府の決定に服する責を負う。もちろん制服を含め、誰しも自らの意見を持つことができる。しかし個人の思想信条の自由と、職業に伴う義務とは別問題である。
軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することは、軍人が社会における実力の最終的保有者であるだけに、きわめて危険である。それ故にすべての民主主義国にあって、軍人は国民によって選ばれた政府の判断に従って行動することが求められている。これがシビリアンコントロール(文民統制)である。
航空幕僚長が官房長に口頭で論文を書き応募することを伝えたのみで、原稿を示すことなく、政府見解に反する主張を発表したことが明らかになったとき、防衛大臣は即日幕僚長の解任を決定した。
これに関連して想起するのは、1928年の張作霖爆殺事件である。関東軍の河本大作参謀は、上司と政府の指示なく、独自の政治判断に基づき、現地政府のトップを爆殺した。それ自体驚くべき独断専行であるが、それ以上に重大であったのが軍部と政府がこの犯行を処罰しなかったことである。そのことが、軍人が国のためを思って行う下克上と独断専行はおとがめなしとの先例をなした。軍部にブレーキが利かないという疾患によって、日本は滅亡への軌道に乗った。シビアンコントロールがいかに重要かを示す事例である。
それを思えば、このたびの即日の更迭はシビリアンコントロールを貫徹する上で意義深い決断であると思う。制服自衛官は、この措置を重く受け止めるべきである。
一部には解任措置だけでは不十分との主張もある。そうした新聞の一つは、筆を伸ばして「防衛大学校での教育」への疑念にまで言い及んだ。幕僚長が防大の卒業である以上、そうした疑念にも無理からぬ面もあろう。
防大教育の実情について報告する義務を負っているものと解したい。
防大の創設は、このたびの論点となった戦争の過去と密接に関係している。ダレス特使の再軍備要求に抵抗した吉田茂首相であったが、防大の設立にはなみなみならぬ意欲を示し「下克上のない幹部」をつくることを求めた。
これを受けて槙智雄初代校長が民主主義時代にふさわしい幹部自衛官育成の精神とかたちを築いた。その教育方針は「広い視野、科学的思考、豊かな人間性」培わんとするものであった。
旧軍が、自国愛に満ちて独善に陥り、国際的視野を見失った過去、「大和魂さえあれば」とか、「竹やり三千本」の言葉に示される観念論・精神主義の過剰のなかで成り立たない戦争にのめり込んだ過去、戦争への没頭の中で政府・大本営が他国民への惨禍と自国民への犠牲に鈍感となり、人間性豊かな自省を弱めてしまった過去、こうした過去の克服を期する指針であることは容易に解されよう。
私が感心するのは、過去への反省に立つ指針が、同時に戦後の新しい時代への洞察とも結びついていた点である。
「広い視野」は国際化が急速に進む戦後世界に、「科学的思考」は科学技術革命の爆発する時代に、「豊かな人間性」は民主主義社会において国民との共感が不可欠な時代に、それぞれ予言的なまでに適合しており、それゆえに今なお妥当性を失わないのである。
槙校長の事跡と思想を展示する記念室をたまたま先日防大資料館内に開設したが、その中に「服従の誇り」という不思議な言葉がある。通常、服従は奴隷的であり、屈辱的である。個性の確立と自主自立こそが誇りであろう。
槙校長は、国民と政府への自衛官「服従」が、自発性に基づく積極的なものであり、それが国と国民に献身せんとする大義に発するものであるならば、立派に「誇り」たり得ることを、創立期の防大生に対して説いたのである。言い換えれば、槙校長はシビリアンコントロールを外力への服従としてではなく、自らの信条として内面化することを語りかけたのである。
このたびのことがあって、私は防大における歴史教育の内容がどのようなものであるか、改めて調べてみた。あの戦争を賛美するような講義内容は、一般教授の「政治外交史」や「日本近現代史」にも、また制服の先輩教授が教える「日本戦史」などにもまったく見あたらなかった。すべてが資料根拠に忠実な実証研究のスタイルであった。むしろ実証を踏まえつつも、もう少し意味づけや斬新な解釈を打ち出していいのではないかと感じるような着実な傾向であった。
私自身も歴史家であるが、世界の中の日本を全体的に見れば、千年前に源氏物語を生み、非西洋世界の中で真っ先に近代化を成功させて西洋諸国と並び立つ国となり、戦後もまた、格差の最も少ない豊かな民主主義社会を築くなど、卓抜した能力を示してきた立派な国民だと考えている。
その中での遺憾な局面が、あの戦争の時代であり、今なお誤りを誤りと認めることが出来ずに精神の変調を引きずる人のいることであると考えている。
≪参考≫ 以前抗議した内容。五百旗頭 真氏の思想
http://sakura4987.exblog.jp/4701460