◆論説委員・福島敏雄 「ぼんやりした不安」の果て
(産経 2009/1/10)
◆芥川龍之介の不安
「恐怖」は対象がはっきりしている際に抱く感情だから、努力して克服し、回避することはできる。これに対して、「不安」は対象が不分明で焦点を結ばないから、粘液のようにネバネバと感情にからみつづける。
芥川龍之介は昭和2年7月、「何か僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安」という遺書らしきものを残して服毒自殺した。鋭い嗅覚(きゅうかく)を持った作家だから、自らの文学的な将来だけではなく、時代が破局(カタストロフィ)に向かって雪崩(なだ)れこんでいくのを嗅(か)ぎとっていたのかもしれない。
この2年後にはニューヨーク市場の大暴落が起き、日本は大きな経済パニックにおちいった。就職難が続き、軽佻浮薄(けいちょうふはく)な風俗もハンランした。東北地方は大飢饉(ききん)にみまわれ、娘たちの身売りも起きた。革命を唱える左翼勢力は徹底弾圧され、革新を唱える青年将校たちも一掃された。すでに「ぼんやりした不安」ではなく、不安に満ち満ちた社会になっていた。
そうした歴史的な出来事は分かるが、「昭和2年」という時代がかもしだすナマの匂(にお)いや雰囲気までは分からない。分からないが、高度経済成長が終わってからバブルが崩壊するまでのある時期の匂いや雰囲気と、どこかで通底しているような気がしてならない。すぐれた文学者は、たしかに嗅(か)ぎあてている。
◆三島由紀夫の不安
芥川が自殺した時、三島由紀夫はまだ2歳の赤ん坊だった。その三島は昭和45年7月、「私の中の25年」というエッセーをサンケイ新聞(当時)に寄稿した。戦後民主主義を痛烈に批判したうえで、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする」と続けた。
その4カ月後、自衛隊に決起を促して割腹自殺した三島の、檄文(げきぶん)にも似たこの文章は、だがちょっと割り引いて読む必要がある。戦後民主主義の「虚妄」には、まだ賭けるに値する取り柄ぐらいは、少なくとも当時はあった。
それを三島は矯激(きょうげき)なまでに全否定した。この時、すでに自らの生死を賭したパフォーマンスだけでなく、これからの日本に対して、「ぼんやりした不安」を抱いていたためなのかもしれない。だからであろう、続いて「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、抜目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と呪詛(じゅそ)にも似た予言までした。
だが三島の予言は外れそうである。「或る経済的大国が極東の一角に残る」とは、いまやだれも断言できないからだ。
◆司馬遼太郎の不安
芥川が死んだ時、3歳だった司馬遼太郎は平成8年2月、産経新聞連載の「風塵(ふうじん)抄」の、奇(く)しくもそれが最後となってしまったエッセーに「日本に明日をつくるために」というタイトルをつけた。バブルのころ、大阪の「東郊の外れ」にある司馬の自宅近くにあった半反(約150坪)ほどの青ネギ畑が、坪8万円から坪数十万円に高騰したことをもって、次のように書いた。
「いかなる荒唐無稽(むけい)な神話や民話でも、この現象の荒唐性には、およばない。これをもって経済現象といえるだろうか」
三島のエッセーから26年後、「或る経済的大国」の抜け目のなさを、司馬としては珍しく、激したように批判した。そのうえで、次のように断じた。
「土地を無用にさわることがいかに悪であったかを(略)国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国にあすはない」
後に「失われた10年」と呼ばれることになる、今から13年前のこの時期を前後として、「或る経済的大国」は、ゆっくりと沈み始めた。司馬もまた、日本という国の行く末に「ぼんやりした不安」を抱いたのであろう。
--さて平成21年の幕開けである。不安をおおっていたカスミのような「ぼんやり」は少しずつ飛散し、「いま、ここにある不安」に転化しつつある。
非正規労働者であろうが、フリーターであろうが、パートの主婦であろうが、次々と解雇され、住む家も、果てはその日の食べ物にも窮するようになった。介護を受けるお年寄りや障害者といった社会的弱者たちは、社会保障の枠から弾(はじ)きとばされるのではないかという恐れを抱きはじめた。
この不安は、正規と言われる労働者たちの間にも広がり、やがて社会全体に悪性のウイルスのように浸透していくのであろう。日本国の「あす」ではなく、日本国の「きょう」が見えない時代に入ろうとしているのである。