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◆【昭和正論座】国連アジア犯罪防止研修所・教官 佐藤欣子



 (産経 2009/2/22)


 □昭和50年5月30日掲載

 ■西欧も男女平等に悩み

 ≪マゾヒステックな女性観≫

 日本の女性は長い間、先進西欧諸国の女性と比較して、自分達は不幸であり、かつ日本の女性の地位は低いと考えてきた。

 ここに本年四月十三日付のオーストラリアの新聞記事がある。それによれば、ある日本の女性が、ある会合で「日本の女性も都市においては西欧化したが、その地位はオーストラリアの女性の地位とは較ぶべくもない。労働力の三分の一は女性であり、十五歳以上の女性の四八%は就業しているが、女性のプロフェッショナルは少なく、僅かに医師の一〇%が女性であるにすぎず、女性の裁判官は三%にすぎない」と述べて、会場の聴衆を釘づけにした-という。しかし、女性の医師が一〇%という率は他の非社会主義諸国に比して慨嘆すべき低さではないであろう。ましてやオーストラリアには私の訊(たず)ねたかぎりでは女性判事は三名程度しかいない筈である。

 このような日本の女性のマゾヒステックなセルフイメージは、つい四分の一世紀ほど前まで日本の女性は「封建的」、「時代錯誤的」な家族慣習の桎梏(しっこく)の中で人格も認められずに生きてきたのであり、ようやく憲法が両性の法の下の平等を宣言し、その第二四条が婚姻及び家族生活における両性の平等と個人の尊厳を確認したことによって、女性はかかる家族慣習から解放され、西欧近代の個人主義的一夫一婦制、「個人を自己目的とする個人主義的家族観」(法学協会『註解日本国憲法』)が導入されたのであると考えられていることに由来するであろう。

 ≪美化されたモデルの実態≫  

 このような見方は、日本の社会や諸制度の特徴を内在的歴史的に理解することなく、美化された西欧モデルと日本の実際とのギャップを、日本の後進性に基づく歪みとして非難する一般的な傾向に対応している。

 しかし、それにしても、余りにも楽天的な、「個人の尊厳」と「男女の平等」の結婚における予定調和は、この条文の起草者が悩みのない男性であったことを推認させる。また「個人を自己目的とする個人主義的家族観」というフレーズの「個人」の中から、女性は半ば無意識の中に脱落させられていたのではなかろうか。

 西欧近代の結婚形態は男女の平等に立脚したものではなかった。それは西欧近代の結婚において、社会がすでに世俗化し宗教がその力を失った後においても、なおかつ、いかに「夫婦一体の原則」が強調されたかを考えれば明らかであろう。個人主義が強固であればあるほど、バラバラな二人を結びつけるために二人が一体であることが強調される必要がある。そして一体となった二人の首(かしら)はいうまでもなく夫であり、妻は夫に仕えるものとなる。荘重な結婚式における、「マン・アンド・ヒズ・ワイフ」となったという誓いの言葉はこのような事態の的確な表現に外ならない。それは「ハズバンド・アンド・ワイフ」ですらないのである。

 ≪日本女性もたじろぐほど≫  

 従って西欧型結婚は現実には、きわめて個人主義的な夫が、同じく個人主義的な妻を支配するという結論になる。それは夫にとっても至難事であるが、妻にとっては著しい苦痛となる。女性は独立・活動・業績・自己主張・競争等といった社会一般の価値基準を放棄し、適応・従順・依存・奉仕・自己否定といった女性の美徳に従うことを要求される。彼女が結婚したにも拘らずなお個人主義的であり、自己の欲求、才能、業績、成功等に固執するならば、彼女は深いジレンマにおちいらざるを得ない。西欧近代の女性史は、このジレンマの中で時に自殺し、時に夫によって、精神病院に幽閉されたような、それこそ悲恋の物語によって彩られているのである。

 西欧型個人主義的結婚制度の下で、女性の被害意識は、日本の女性がたじろぐほど深刻である。アメリカで忽ち百五十万部のペーパーバックを売り尽くしたベッティ・フリーダンの『フェミニン・ミスティーク』は周知のように、幸福な筈のアメリカ郊外の中産階級の大学卒の主婦達、「夫は出世街道を歩み、子供達は良い学校に通学し、娘はバレエを習い、息子はボーイ・スカウトに参加し、最新の家庭電気器具を備え、妻であり、母であることの歓びを称える幾冊もの雑誌を読んでいる主婦達」の、名づけようのない被害意識をあばきだし、ウーマン・リブ運動に火をつけたのであった。

 ≪外に閉ざされたカップル≫ 

 ところで西欧における夫婦一体の原則は夫と妻とが何時でも何処でも何事でも、一対となって行動する「カップル」の慣行をもたらしている。レストラン、劇場、旅行、パーティー等すべて男女一対が予定されている。このようなカップルの慣行の下で育った外国人が日本に来て奇異に感じるのは、国際会議のレセプションのような華やかな場面にすら「奥さん」が姿を見せないことであろう。「日本の方数人とある日本人の家に招かれた」が「夫婦で行ったのは私たちだけ。招いた家の奥さんは男のお客さんにサービスしたり、料理をつくったりでちっとも仲間へはいらない。ガッカリしました。あれではかわいそう」というのはきわめて率直なコメントである。しかしそれは「日本人が俗に自分の妻をば『荊妻(けいさい)』などと呼ぶを見て、妻を軽蔑し尊敬せざるものと為す皮相の見解」と同類であろう。カップルの慣行は夫と妻はついに二人の人格であるという観念を脱しきれない西欧社会の男と女の不安と妥協と自己欺まんの産物でもある。

 従ってカップルは、あらゆる種類の馬鹿々々しき相愛の語や無意味な阿諛(あゆ)の言葉のありたけを尽さねばならず、客を招待した場合でも、客として招待された場合でも、その関心、注意、忠誠、配慮の対象は自己の配偶者であることを折にふれ態度で示さなければならない。客である女性に対する夫の歓待も、そのような配慮を怠れば、妻は侮辱と嫉妬(しっと)の感情をほとんど隠すことができない。カップルは排他的で外に対して閉ざされている。

 西欧近代の結婚形態は個人の尊厳と男女平等の両者を共に満足させるものではない。憲法第二四条は西欧モデルに従うことによっては実現されることはないのである。それが、どのような条件の下に実現し、どのような形態をとるのかは、勇気ある人々の真摯(しんし)な生き方に託された課題である。(さとう きんこ)

                 ◇

 【視点】昨年暮れ、74歳で死去した佐藤欣子氏は代表的なキャリアウーマンの一人だ。東大法学部を卒業後、日本で5人目の女性検事に任官し、東京、横浜地検などを経て、米ハーバード大で研究を積み、帰国後、総理府参事官を務めた。退官後も、リビングマガジン研究所長やNHK経営委員として幅広く活躍した。

 これは、佐藤氏が国連アジア犯罪防止研修所教官だったころ、男女平等の先進国とされる西欧諸国でも、個人主義的結婚制度の下で女性が苦しんでいた実態を指摘したものだ。夫と妻が一対で行動する「カップルの慣行」も、男と女の妥協と自己欺瞞(ぎまん)の産物でもあるとし、安易に西欧モデルに従うことを戒めた。
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by sakura4987 | 2009-02-25 16:00

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