★★★ 日本再生ネットワーク 厳選ニュース ★★★

sakura4987.exblog.jp
ブログトップ

◆【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 福原越後



 (産経 2009/4/2)


 ■政治家と非情の掟

 政治は結果責任である。これは今も昔も変わらぬ真理だろう。政変や革命といった大きな変革期には、論理や理性がまったく通じないことも多い。主観的に良かれと信じた行為がふとした歴史の転回で悪となるのも珍しくない。

 悲劇的なのは、主君の命で動いた臣下が情勢の急変と主人の心変わりでいつのまにか「悪の巨魁(きょかい)」とされ、政治責任をとらされる不条理だろう。

 元治元(1864)年に「禁門(蛤御門(はまぐりごもん))の変」に敗れた長州藩3家老ほど自分の死に納得できなかった政治家も歴史上少ない。

 ◆お家大事で切腹

 そもそも長州藩永代家老の福原越後は、他の2家老とともに、尊王攘夷(じょうい)の実行を方針とした藩主・毛利敬親(たかちか)の命を受けて率兵上洛したのだ。しかし幕府の長州征伐が目前に迫ると、お家大事で藩主から切腹を命じられたのだから政治はむごい。それも、御所方面に発砲した行動を「不忠不義」となじられたのだから、武士としてはやるせなかった。

 このあたりは中村彰彦氏の珠玉の短編『さらば、そうせい公』(文芸春秋)に鮮やかに描かれている(『東に名臣あり』所収)。

 3家老は山崎、嵯峨野、伏見に分かれ、福原は伏見から入京しようとした。長州藩を御所警護から解いた文久3(1863)年8月18日の政変の屈辱を晴らし、池田屋事件で殺害された藩士の報復を目指したのである。

 しかし長州勢の敗走後、陣地から藩主の黒印の捺(お)された軍令状が発見されたからたまったものではない。孝明天皇は、御所に射掛けた長州勢にいたく立腹し、防長二州(いまの山口県)の追討を命じた。自らが勤王のトップだと自負する長州藩にとっては青天の霹靂(へきれき)だったといえよう。藩論は一挙に恭順へ旋回し、謝罪のために福原らの3家老を切腹させ、その首級を幕府に差し出した。

 上洛作戦は君命と藩論に拠(よ)っていた。しかも福原は伏見で奥歯を撃たれ、意識を失ったまま戦場を部隊ともども離脱した。御所には何も不敬を働かなかったという気分なのだ。

 もともと長州支藩の徳山藩主の六男でありながら、1万6000石とはいえ家老家の養子になった福原越後のことだ。実弟の定広が本藩の世子となっており、世が世なら自分も長州藩主や徳山藩主にもなれたという思いが強い。貴種としての誇りや意地にかけて罪人扱いは屈辱であった。福原は、囲碁でいう劫(こう)のように取引材料にされる不満もあっただろう。

 ◆貴種の誇りと自尊心

 しかし藩を恭順にまとめた俗論党は幕府の追討を免れ、御家を救うためなら、藩主や世子にも犠牲を強いる覚悟だったらしい。鮮やかな政策でも失敗に終われば、政治責任をとる人物が必要となる。 これは政治のリアリズムであり、非情の掟(おきて)である。現代日本の若い政治家たちには、この“非情のメカニズム”がどうも分かっていない。“有名人”“リーダー”たる政治家は、いつでも政治生命という名の命を差し出す覚悟をもたないと務まらない職業である。小泉純一郎元首相がいみじくも述べたように、現代では生命を奪われないだけましなのだ。

 福原の偉いのは、内心納得もせず、切腹の直前に声もなく泣きながら、まず従容(しょうよう)として黄泉(よみ)に旅立ったことである。貴種の誇りと自尊心というものだろう。

 2世、3世議員という“現代の貴種”たちには、政治の行方を左右する不祥事を自分や秘書が起こしたなら、福原のように否(いや)でも政治責任という命を差し出す覚悟をもってほしい。これはリーダーとなる志の代償でもある。そうした志のない人は、本来政治家の道を歩むべきではないのだ。

                   ◇

【プロフィル】福原越後

 ふくはら・えちご 実名は元●(もとたけ)。文化12(1815)年、周防(すおう)国徳山藩主、毛利広鎮(ひろしげ)の六男に生まれ、長州藩士・佐世親長の養子となる。安政5(1858)年、本藩永代家老の福原親俊の死後、藩命で同家に入り、越後と称する。文久3(1863)年まで長州藩最後の国家老を務め、尊王攘夷運動を推進。同年長州藩が京都から追われたため、元治元(1864)年6月、兵を率いて上京、7月禁門の変で負傷し、退く。11月に岩国の竜護寺で切腹させられた。享年50。

●=にんべんに間
[PR]
by sakura4987 | 2009-04-04 07:40

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987