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 (国を憂い、われとわが身を甘やかすの記 2008/06/05)

 http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/598635/


西田昌司氏:太田会長はじめ幹部の先生方がいろいろ細かく配慮をした形のを出してきていただいているんですけれども、やはり私も先ほどから話ありましたように、そもそも、この法案の目的が何なのか、差別を無くしていこうということはよく分かるんですけれどもね、結果的にこの法律によって、実は人権擁護という新しい暴力装置をつくってしまうことになるんじゃないか、それを一番恐れるわけなんですよ、私は。実は先日、私地元の京都に帰りまして、自民党のある支部の総会で国会議員としてあいさつをさせていただいてました。こういうことが起きたんですよ。

 そこである同和団体の幹部ですが、私の演説の最中に、とにかく、罵詈雑言を浴びせかけ、私にとって全然事実が分からないことで、とにかく浴びせかけて、演説を中止させて帰らすわけですね。それ裏にあったのは何かというと、要するにこの問題なんですよ。この問題をどうしてお前は止めているのか。こういうように私は受け止めましたけれども、その後も、また同じような自民党の先輩の先生方からも、そういう忠告を受けましたですよ。

 まさにね、今この人権擁護法というような話をしているのに、もしこの法律ができたらですね、まさに私がここでしている自由な発言自身も、葬り去れられてしまうんじゃないかと、今、その話をしている段階でも、そういうことがあるんですよ。私はなぜこういうことを公にするかというと、非常に、この言った人間自身がですね、過去に重大な犯罪を犯しているわけです。ですから、非常に脅威を感じました。私は(殺害された長崎市長の)伊藤一長氏じゃありませんが、本当にですね、私をはじめ、私の家族、その周りの人間が偶然どこかで転んだり、どこかで傷つけられたりしても、私は偶然だと思いませんよ。それぐらいの私、脅威を感じているわけなんですよ。こういうことをね、この自民党の中で、やっぱり無視している人がいていいのかと。まさに対立だけをどんどん生んでいくんじゃじゃないでしょうか。もっと本音の話をしていただかない。形式の話をしていただいてもダメですよ。本当になぜこれをやっているかということを国民が分からないままにやっていくと、とんでもない危険なことになりますし、私自身も脅威を感じていると、そのことだけはみなさん方にお訴えさせていただきたいと思います。


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◆人権擁護法案の今国会提出見送りと議員たちが語る「本音」

 (国を憂い、われとわが身を甘やかすの記 2008/06/07)

 http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/601258/


 《西田昌司氏:(前略)冒頭に太田先生が、要するにこれは本音の話、ということをおっしゃいましたんで、私もこれは申しあげたいんです。といいますのは前回も申しあげましたけども、私自身、京都に、地元に帰りまして、同和関係の団体の方から、非常にこの問題におそらく関連してでしょう、悪罵を投げかけられて、私の発言を阻止された。この6月27日に私は国政報告会を大々的にやる予定になっているんですが、そのときにそういう団体からですね、問い合わせがあるんですよ。いつあるんだ、と。まさにこれ、そういうことがされると、私、演説会自体、国政報告会自身できなくなる。ですから今警察の方に頼んで、いわゆる警護の、警備までしてもらわなきゃならい、本当におかしなことになってきているわけです。

 何を申しあげたいかというと、私は京都に帰りましたときに、先輩の先生に、「西田くん、この法案の経緯を君、知っとるのか。反対しているようだけど」と言われたときに、おっしゃったのが、要するにこれは同和団体の要望を受けて、そして、今まではいろんな向こうに優遇があった。「それをやめさせた代わりに今度はこの人権擁護法をつくっていくんだよ。そういう経緯があることを君、分かっているのか」こういうことをおっしゃったわけなんですね。まさにこれが本音の部分でおっしゃったんだろうということなんですよ。

だから、だからこそ、そういう関係の団体の方が反論されてくる。そこがね、一番大きな問題なんですよ。それで私が言いたいのは、同和団体という方にもいろんな方がおられますからね、名乗っておられる方も含めて、おられるんですけども、非常に不幸なのは、こういう方が一部突出してしまうと何か全体がとんでもない話になるんですが、私も同和関係の方、存じてますがね、まともな方はまともなんですよ。ところが、そういう団体の、大きな力を背景にね、力で押していく、こういうことがね、市民が見てますから、京都なんかではね、これはちょっとどうなんだという空気があるわけなんですよ。だから今回の法律もね、そういう団体が為にすることに使われてしまうんじゃないのか、と。道徳律まで踏み込んだ話を法規制することによってね、また新たな自分たちの力の源泉となってしまう、そうなってしまうとこれは不幸じゃないですか。

 だから、自民党がね、われわれが話さなくちゃならないのは、そんなきれい事じゃないんですよ。こういう現実をしっかり踏まえた上で、話していただかないと。個別の事情はもちろん大事かもしれないけども、本当に大事なのはここの部分でね、ここをやっぱり太田会長もね、ぜひご理解いただきまして、私自身、矢面にたって本当困っているんですよ。私は逆に彼らに対決するつもりも何もない、むしろそういうことを円満に本当に日本人として仲良く暮らしていくための仕組みをね、お互い考えたいと思っているわけなんですから、ぜひそこを論じていただかないと。これ本当にね、対決…。まさにこの法律の解釈の仕方、そのことが局長、目的じゃないでしょう。あなたとも話合いましたけれども。だからそこをね、政治の場できちっとしていただきたいと思うんです。》


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◆人権擁護法案・国民は西田議員の訴えに注目を!!

 (国を憂い、われとわが身を甘やかすの記 2008/06/22)

 http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/618326/


《稲田朋美氏 今日この法案ではなくてこの会の仲間の議員の発言についてちょっとお話しをしたいと思います。ここは人権問題調査会ですから、私はこの会の仲間の発言、そして言論の自由、政治活動の自由はきちんと守っていただきたいと思うんですけれども、前回(前々回)西田さんがこの会で発言されたことに関しまして、京都の自由同和会というところから、抗議の文書が西田さんの同僚に配布をされております。そしてまた配布された資料を見ますと、太田会長宛にもその方から、抗議文とそしてまた西田さんに対して指導するようにっていう要請文が来ているわけであります。そして西田さんのこの会での発言が、特定の人物に対する名誉毀損に当たると、そして訴訟準備中であるという文書であります。

もちろん名誉毀損というのは公然事実を摘示して、ある特定の人物の社会的地位を低下させる、そういった言動でありますけれども、私はこの自民党というこの閉ざされた部会内での発言が、公然に事実を摘示したことになるのか、そしてまた私もその場にいましたけれども、西田さんの発言が誰か特定の人物の社会的地位を低下させるものと私は認識をしなかったわけであります。しかし、このような訴訟を準備しているというような文章が同僚にまかれること自体、西田さんの政治活動の自由に対する制限でありますし、この点はぜひとも人権を尊重するためのこの会としては、こういった抗議文に対しては毅然とした対応をとっていただきたいというのが一点。

もう一点はこの文章でも分かりますように、もし人権委員会なる強大なものがあれば、訴訟を準備することなくすぐさま駆け込み寺としての人権委員会にその方が駆け込んで、そのことがまた西田さんの政治活動を萎縮させる。そして政治家全体に対する言論の自由政治活動の自由に対する萎縮の非常にいい例だと思います。しかもご丁寧なことにこの会での発言を一字一句文章にしたものを添付されているわけでありますが、一体どうしてそういったことが起こるのかという点も含めて私は会長のご意見を伺いたいと思います。


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◆自由同和会 京都府本部

 http://www.zenjido.org/

「人権擁護法案」の成立に全精力を傾注!!

 平成19年6月30日(土)午後2時、「第22回自由同和会京都府本部大会」及び「第12回自由同和会京都市協議会大会」が開催されました。

 今大会で、役員が再任され、「人権擁護法案」をはじめ、さまざまな問題解決に向け積極的に取り組んでいく事を確認しました。


 ※証拠画像? 詳細はこちらへ ↓
   
 http://www.zenjido.org/news/205/news_205_1s.html
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by sakura4987 | 2008-06-24 11:22


 (世界日報 2008/6/21)


“牙”を抜かれた沖縄メディア/米軍、長期統治の悲劇


 昭和四十三(一九六八)年九月、昭和天皇と香淳皇后が稚内で「九人の乙女の碑」の前に立たれた時、既に「軍命」という記述はなかった。碑文が、わずか三、四年以内に削除・修正されたというのは異例なことだ。

 その理由として、二つの要因があったと思う。まず第一は、ソ連軍が火事場泥棒のように、乱暴狼藉(ろうぜき)を公然と働いた事実を多くの樺太の住民が目撃、体験していたことだ。もう一つは、日本本土は昭和二十七年に独立、言論の自由が回復されたこと。そのため、金子俊男著『樺太一九四五年夏』などの優れた戦時記録が誕生し、樺太での悲劇が、赤裸々に公表されたのである。

 一方、沖縄はどうであっただろうか。既に「真実の攻防」連載で言及したように、米軍は日本統治の在り方を入念に研究し、「内地人」と「沖縄人」の対立・離間工作、米国と日本の戦いを「軍国主義者」と「国民」の戦いにすり替えるWGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)を立案。戦時中、一千万枚ともいわれる宣伝ビラをまいたのもその一環である。そして上陸直後は、真っ先に負傷した住民、兵士の治療に当たる救護チームを派遣して、日本軍が流した「鬼畜米英」のイメージを払拭(ふっしょく)させ、「日本軍に自分たちは騙(だま)されていた」と思わせる作戦を展開し、見事に功を奏した。

 占領政策で米軍が最も苦心したのは、表面上は言論の自由が保障されているかのように取り繕いながら、完璧(かんぺき)な「検閲で統制された言語空間」をつくり出すことだった。そのために新聞・ラジオなどは無論、高校の生徒新聞、子供の紙芝居に至るまで鋭い目を光らせ、都合の悪いものは「発行手続きが不備」などの理由で発行を停止させた。

 そのような時代に発行された沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年発行、初版は朝日新聞社)に対して、沖縄戦集団自決訴訟を担当した大阪地裁の深見敏正裁判長は、高い評価を与えたが、これは「木を見て森を見ず」の分析と言わざるを得ない。

 承知のように、『鉄の暴風』は米軍のヒューマニズムを称賛し、日本軍への憎悪を記述のベースに置いている。その典型が、隊長の住民自決命令である。

 『鉄の暴風』は発行前に全文英訳して、その内容を米軍が精査した上で許可を出した。そこに、米軍への批判の一言半句も差し挟むことはできなかったのである。その当時の出版をめぐる興味深いエピソードをご紹介したい。

 一九四八(昭和二十三)年、アメリカでヘレン・ミアーズは『Mirror for Americans:JAPAN』を出版した。一九〇〇年生まれのヘレン・ミアーズは、一九二〇年から日米開戦前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本専門家として講義。四六年、連合国軍総司令部(GHQ)の諮問機関「労働政策十一人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。その年、翻訳家の原百代氏はヘレンから原著の寄贈を受け、日本での翻訳出版の許可も得た。原氏は、GHQに嘆願書を添えて、日本における翻訳出版の許可を求めたのである。

 だが、翻訳は許可されなかった。マッカーサーは翌年八月、ある知人に出した手紙の中で「本書はプロパガンダであり、公共の安全を脅かすものであって、占領国日本における同著の出版は、絶対に正当化しえない」「占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない」と述べている。(伊藤延司訳『新版 アメリカの鏡・日本』、平成十七年、角川書店。前書き参照)

 マッカーサーの予言通り、本は占領が終了した後の昭和二十八年に出版された。本の中には、次のような記述がある。

 〈占領は博愛主義的行為からは、はるかに遠いものである。私たちは、日本国民が指導者たち同様拘束されている事実を直視しなければならない。日本の行政、産業、資源、労働を握っているのは、法律をつくり、ときには武力をつかってでも法を執行しようとするアメリカ人である。教育制度、宗教、葬式、婚姻の習慣、伝統芸能、礼儀作法からキスの仕方まで、日本の文明がアメリカの規制を受けている〉(『新版 アメリカの鏡・日本』より)

 厳しい検閲制度の中で誕生した沖縄タイムスは、米軍から“牙”を抜かれながらも、米軍から“栄養”を吸収して成長するしかなかった。戦後、二十七年にも及ぶ米国統治こそ、沖縄メディアにとって底知れぬ悲劇をはらんでいる。





④━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


◆沖縄戦「集団自決」から63年 真実の攻防 第3部<6>

 (世界日報 2008/6/21)


戦前教育の罪悪視に反論/「欧米に倣った」と清瀬一郎

 アメリカのヘレン・ミアーズの著書は、占領下での翻訳出版を禁止されたが、日本でも当時、自ら執筆依頼を断った人物がいた。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)の弁護団副団長であり、東条英機の主任弁護人を務めた清瀬一郎その人である。

 清瀬は昭和四十二年、読売新聞社から『秘録 東京裁判』を出しているが、実は東京裁判の被告のうち七人が死刑執行された後の二十三年十二月末にも、読売新聞社から、東京裁判の顛末(てんまつ)を書いてくれ、と要請された。だが彼は断固として断っている。読売の記者は粘って、では執筆しない訳を書いてくれと申し込み、「東京裁判のことを書かざるの記」というような題で一文を草した、という。要約すると――。

 連合国は言論の自由を標榜しているので、法廷では連合国の違法も、わが国の自衛権も、正々堂々、だれはばからず主張することができた。いかに耳ざわりでも、とにかく、これを許さねば道理が立たぬ。しかし、法廷以外では、その半分も主張が許されぬ。そのことは当時の占領政策の実際としてわかっている。現に毎日の法廷記事許可の限度でわかっている。いま、読売新聞の申し出により、私が正直に、良心的な記事を書けば、新聞の発行禁止は必然であり、なおその他の災害を伴うかも知れぬ。(中公文庫『秘録 東京裁判』参照)

 占領時代、信念と真実を言える時と場所をわきまえていた清瀬の気概と見識は見事なものである。

 清瀬は、連合国軍側の検察を相手に一歩も譲歩を見せなかった。

 さて今日、沖縄戦の悲劇の元凶を、左翼勢力は日本軍と、徹底した皇民化教育のせいである、と主張する。沖縄戦を語る証言者の中にも、日本軍を悪く言わずとも、当時の教育が集団自決の要因であったという見方をする人も少なくない。連合国軍が敗者の日本を裁いた東京裁判においても、検察は当時の日本の教育を悪者に仕立てようとした。検察側の主張はこうである。

 昭和三(一九二八)年一月一日以前、多年にわたって、日本軍部は日本の青年に軍国主義的精神を教え込むことを目的とするとともに、日本の将来の発展は征服戦争にかかるという極端な軍国主義的観念を培養せんとし、軍部はこれを日本の公立学校に実施したのである、と。そして検察は、これを共同謀議の存在する証拠の一つとして挙げたのである。

 清瀬は冒頭陳述でこの検察側の主張に対して「これほどわが国の教育に関する間違った見解はありませぬ」と、真っ向から反論している。そのくだりを下記に引用する。

 〈わが国の公立学校制度は一八七二年、すなわち明治五年、アメリカの組織に倣ってたてたものであります。国民道徳の大本はわが国古来の美風を経とし、支那の儒学を緯とし、これに配するに西洋道徳の枠をもってしたものであります。のち一八九〇年、明治二十三年に教育勅語が発布せられました。このうちに忠と孝と博愛と信義、公益、奉公等の徳目が定めてありまして、決して戦争奨励の趣意は含んでおりませぬ。日本人の崇拝の目標でありまする皇室のご本旨は、常に平和と、愛と、仁慈とであります。もっとも華美を排斥(はいせき)して、質実、剛健を奨励しましたが、これは戦争奨励とは異なったものであります。

 一九二九年以後においては、アメリカやスイスの例に倣いまして、学校内に軍事教練を施しましたが、これは青年の心身の鍛練と品性の改善のためであります。そしてこの措置は日本政府による軍事予算の削減から生じた欠陥を補うためでありまして、侵略思想の表現とみなすべきものではありません〉

 清瀬は、これが「わが国不動の教育方針」と指摘し、「いかなる文部大臣もこの不動の方針を動かすような力は持つことができませぬ。日本の将来は征服戦争にかかるなどの教えは、政府も軍も方針として教授したことは断じてないのであります」と明言するのだった。

 さらに清瀬は、「八紘一宇」とは、全世界人類が一家族中の兄弟姉妹と同一の心持ちをもって交際するという意味であり、「皇道」の本旨は、仁愛、公正、及び道徳的勇気であり、さらに礼儀と廉恥を重んじることであり、人間の尊重ということについて皇道とデモクラシーに本質的な差異はない、と述べるなど、検察側の主張に対して徹底的に反論するのであった。
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by sakura4987 | 2008-06-24 11:21


 (世界日報 2008/6/18)


■樺太の悲劇③/真岡の電話交換手9人の自決/碑文から消えた「軍命」


 映画「氷雪の門」は、真岡郵便局の電話交換手九人が懸命に業務を行い、最後に青酸カリを飲んで自決するという実話を基に制作され、樺太最大の悲劇として知る人も多い。

 稚内公園の「氷雪の門」のそばには、「皆さん これが最後です さようなら」と刻まれた「殉職九人の乙女の碑」が建立されている。氷雪の門と同じく昭和三十八(一九六三)年八月十五日に公開されたものだが、その碑文には、次のような説明が添えられた。

 「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向った ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼってキイをたゝき『皆さん さようなら さようなら これが最後です』の言葉を残し夢多き若い命を絶った 戦争は二度と繰りかえすまじ 平和の祈りをこめてこゝに九人の乙女の霊を慰む」(原文)

 樺太ではソ連軍の無差別攻撃を受けて、小規模な集団自決があちこちで起きたが、いずれも本人の意志で決行されたものだ。ところが、この九人の乙女に関して、碑文は「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ」などと、「軍の自決命令」が死の原因であったと記している。樺太で起きた集団自決が「軍命」絡みで関連付けられた唯一のケースであろう。

 ところが、碑が公開されると、この記述を真っ向から否定する人が現れた。当時、彼女たちの上司であった、真岡郵便局長の上田豊三氏である。上田氏は、「北海タイムス」編集委員、金子俊男氏の取材に答えて「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかったから、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持で最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人たちを冒涜するのもはなはだしい」(『樺太一九四五年夏』)と怒りを隠さない。

 上田氏の残した手記によれば、昭和二十年八月十六日、豊原逓信(ていしん)局から女子職員の緊急疎開の指示が入り、上田氏は全員を集めてその旨を通知した。ところが、担当主事から、「全員が応じない」との報告。そこで、上田氏は直ちに女子職員を集めて、ソ連軍進駐で予想される事態を語り、説得した。だが、女子職員は「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかったという。

 上田氏は回想する。「私は感動した。しかし、その決意を肯定することはできない。ソ連軍進駐後はどのような危機が女子の上にふりかかってくるか、と思うと私は慄然となる」

 そこで、上田氏は緊急疎開の方針を変えず、小笠原丸が真岡に入港したらそれに乗船させる決意を固める。だが、同船入港前にソ連軍が上陸してしまう――。

 その上で、氏はこう綴(つづ)る。「あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一ヵ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできることかどうか。その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命以外にない」

 やがて、碑文から「軍命」が消えた。新たに次のようになった。

 「戦いは終わつた。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始つた。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向つた九人の乙女等は死を以つて己の職場を守つた

 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい『皆さんこれが最後です さようなら さようなら』の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた 戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む」(原文)

 碑文が取り換えられた日付は分からない。昭和四十三(一九六八)年九月初め、昭和天皇と香淳皇后が北海道百周年記念祝典にご臨席のため、北海道をご訪問。祝典の後の九月五日、稚内をお訪ねになった。浜森辰雄・稚内市長(当時)から「九人の乙女の碑」の説明を受けられた両陛下は目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされたという。その時のお気持ちを後にお歌に託されている。

 昭和天皇の御製

 樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる

 香淳皇后のお歌

 樺太に つゆと消えたる乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる


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◆沖縄戦「集団自決」から63年 真実の攻防 第3部 <4>

 (世界日報 2008/6/19)


■樺太の悲劇④/逓信精神貫いた乙女たち/「特攻隊のよう」と遺族


 戦時中の電話はダイヤル式でなく、交換台に相手の電話番号を告げて呼び出してもらうというものだった。それ故、ソ連軍上陸を目前にして、敵の動向や、住民への避難指示などの重要な情報の伝達、肉親との連絡などは、電話交換手の肩に掛かっていた。自決した真岡の電話交換手九人もまた、その使命の重要性に殉じたのである。その名とその時の年齢を次に記す。(敬称略)

 高石ミキ(24)、可香谷(かがや)シゲ(23)、吉田八重子(21)、志賀晴代(22)、渡辺照(17)、高城淑子(19)、松橋みどり(17)、伊藤千枝(22)、沢田キミ(18)

 碑文から「軍命」が消えたのは当時の真岡郵便局長、上田豊三氏の抗議も大きかったと考えられるが、複数の遺族が「公職だから職場を捨てて逃げるのは、わたしたちの責任感が許さぬ」「私は残らねばならない」と彼女たちが語っているのを聞いていることも大きな要因であったろう。

 最年長の高石ミキさんは殉職した前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、「いざとなったらこれがあるから大丈夫」と胸をたたいてみせた。青酸カリだった。既に覚悟を決めていたのであろう。若い女性が普通、手にしない青酸カリを彼女たちが持っていたことや当時の旧日本軍への嫌悪感などもあって、最初の碑文が作られたと想像されるが、稚内市役所には最初の碑文に関する文書も、変更した経緯を記した文書も残っていないという。

 札幌に住む川嶋康男氏は著書『九人の乙女一瞬の夏』(響文社、平成十五年)の中で、「壮絶な集団自決の背景には、『残留命令』の存在が横たわっている」と指摘、この残留命令を出せる立場にあったのは上田豊三氏であったと批判的に書いている。だが、その本の中で、上田氏から「残留交換手を募る密命」を受けていたという斎藤春子さん本人が、電信課に勤めていた妹とぶつかり、母の希望もあって引き揚げている。たとえ「残留命令」があったとしても、家族の希望を押しのけるほどの拘束力はなかったのである。

 また、角田房子氏は著書『悲しみの島 サハリン』(新潮社、平成六年)で、「九人の乙女たちが死を急いだのは、“貞操の危機”への恐怖にかられたためではなかったか。それも無理からぬことだが、同じ郵便局にいた交換手のうち三人は毒を飲まず、ソ連兵に乱暴な扱いを受けることもなく救出されている。酷な言い方だが、九人の交換手の自決はあまりに早かった」と書く。上からの「命令」と死を結び付けて見てはいないが、それにしても、一言も反論できぬ死者に対して、あまりにひどい表現ではないのか。

 札幌市内で、殉職した可香谷シゲさんの弟、可香谷優公さん(82)に会った。ソ連軍侵攻で家族はバラバラになった。豊原で入隊した優公さんはソ連兵に捕まり、「日本に帰す」と言われたが、シベリアに二年間抑留された。王子製紙に勤務していた父は、会社の防空壕(ごう)に逃れた。そこに手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれたが、幸い不発弾だった。母も、山中に身を隠した。兄は引き揚げ船で小樽へ。

 優公さんの自宅には、樺太から父母が持ち帰った貴重なアルバムがある。そこに、仲間と演芸会に仮装して出たり、友人とスキーを楽しむシゲさんの楽しげな姿があった。姉弟は、ともにスポーツ万能。優公さんは、今でも野球選手として活躍している。

 「姉はとても優しく、一度も叱(しか)られたことはありませんでした。もちろんケンカしたこともないですね」と、優公さんは懐かしく振り返る。

 「殉職ということですが、若くして亡くなった姉は、片道だけのガソリンを積んで、愛する者たちに別れを告げて飛び立った特攻隊と同じですよ。だって、おっかなかったら、逃げ出していたでしょう。自分たちの覚悟で交換台に最後まで残ることを決め、後は覚悟の自決を選んだのでしょう」

 映画「氷雪の門」で、女優の仁木てるみがシゲさん役を演じた。そして昭和四十八年、九人の乙女は勲八等宝冠章を受けた。シゲさんの母、アサさん(当時83歳)は「シゲもお国のために働いたことがようやく分かってもらえて本当によかった。シゲもきっと喜んでいるでしょう」と涙を浮かべて、新聞記者の取材に応じている。

 九人の乙女たちは、沖縄のひめゆり部隊になぞらえられて、「北のひめゆり」とも呼ばれる。だが、彼女たちの短くも清廉な青春を綴(つづ)った書物がそれほど出版されていないのは、残念で仕方がない。
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by sakura4987 | 2008-06-24 11:21


 (世界日報 2008/6/16)


樺太の悲劇(1)

ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民  捨て身で娘たちを守る老女も

稚内公園に立つ「氷雪の門」。氷と雪の厳しい環境で生き抜いた人々を象徴する女人像と、樺太の方向を指す8メートルの望郷の門から成り、樺太で亡くなった人々の慰霊と望郷の思いが込められている
 札幌駅から特急に乗り換えて五時間半、稚内を訪ねたのは四月の下旬だった。ミズバショウの群生が遅い春の到来を告げていた。だが、“風の町”稚内を歩くとまだまだ肌寒かった。
 先の大戦で、国内で住民の集団自決が起きたのは、慶良間諸島のほかに樺太でも起きている。戦時中の集団自決の実相に迫るべく、この地を訪ねたのであった。

 両者は、いろいろと対照的である。地理的には、慶良間諸島と樺太は、日本の両端に位置する。米軍が本島に上陸した昭和二十(一九四五)年四月一日から沖縄戦は本格化するが、それ以前に、慶良間諸島の集団自決は起きた。戦争は日本がポツダム宣言を受け入れ、八月十五日で敗戦となるが、樺太の住民にとっての「戦争」は、その前後から始まった。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻したためだ。

 樺太の地は、アイヌなどの先住民族と日本人とロシア人が雑居する形で明治維新を迎えた。明治三十八(一九〇五)年のポーツマス会議で、北緯五〇度までが日本領となり、二年後にはコルサコフに樺太庁が発足。鉄道、道路、港などのインフラが整備され、漁業、林業、石油、石炭開発などで活況を呈した北の大地に、多くの日本人が移り住み、終戦時は約四十五、六万人までに膨れ上がっていた。

 そこにソ連軍が空、陸、海から一気に侵攻。住民は一瞬にして大混乱に陥ったのである。

 各地でわれ先に港に向かい、避難しようとする人々の群れ。そこに容赦なく、ソ連軍が攻撃した。樺太の北部、恵須取―内路間にある百六キロに及ぶ内恵道路にも、避難民は太い川のようになって南下したのだが――。

 <この避難民の流れをソ連機がしばしば襲った。多くは婦女子の列と知っての威かくとみられたが、逃げまどう人の群れに無差別な機銃掃射や爆撃が加えられたこともあり死傷者がでた。悲惨なのは機銃弾で死んだ母親の死体にすがって泣く幼児。子供を失って発狂する母親。若い人たちについて歩けないと自ら離れていき死を待つ老人。取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼な子を断崖からつき落としたり、死が待つばかりの草むらにえい児を捨て、わずかなミルクを残していく母親などもいた。そして絶望的な逃避に疲れ、劇薬をあおり、手榴弾を胸に抱いて一家が自決する惨劇も相次いだ>(樺太終戦史刊行会編纂『樺太終戦史』より)

 日本軍は戦闘を避けようと、真岡市街でも住民の中にかなりの死傷者が出ていることを知りつつも、交戦を禁じ、停戦のための軍使派遣を命じた。

 八月二十日朝、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近にいるのを確認、白旗を掲げた上等兵を先頭にして村田徳兵中尉が軍使となり、護衛兵とともに交渉に向かった。だが、ソ連兵は日本兵の武装を解かせ、軍犬を電柱に縛り付けるよう要求。その上でいきなり銃口を日本兵に向けて乱射したのだった。白旗を掲げた豊原市の駅前に殺到した避難民にも、ソ連軍は銃弾を浴びせた……。

 こうして、わずか二週間で住民・兵士ら約四千三百人が亡くなった。この間に、七万八千人が内地に引き揚げることができた。だが、樺太に残された人は殺されるか、占領下で強制労働をさせられるか、遠くシベリアに抑留され、二度と日本の地を踏めなかった人々も数多い。幸い命が助かった人も、それまで汗水流して築き上げた土地財産の一切をソ連に奪われてしまったのである。

 ある会社員は、妹を陵辱しようとするソ連兵を制止しようとして銃殺された。婦女子らが仮泊していた真岡町の小学校に、ソ連兵数人が押し掛けて「マダムダワイ(女を出せ)、マダムダワイ」と叫んで、女性を連行しようとした。その時、七十歳くらいの老女が立ち上がり、「私が行ってやる。ほかの者には手を触れるな」と兵士を外に追い出した。老女は輪姦(りんかん)され、翌日、死体となって発見された。

 入院していた重病者看護のために最後まで大平神社の防空壕(ごう)に踏みとどまっていた看護婦二十三人の近くにも、ソ連兵が迫った。八月十六日のことだ。避難する内恵道路にも既にソ連兵が立ちはだかっていることを確認した高橋ふみ子婦長は、「この若い看護婦たちを無事な姿で親元に帰せないならば、死を選ぶことよりほかにない」と覚悟。用意していた青酸カリを注射または飲み干した。致死量に足りず十七人が蘇生(そせい)したが、六人は死んでいった。


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◆樺太の悲劇(2) (世界日報 2008/6/17)


相次ぐ家族の自決、心中   遺族が自問「愛の極致とは」


 樺太の悲劇を書いた著作の中でも、圧巻は映画「氷雪の門」の原作といわれる、金子俊男氏の『樺太一九四五年夏』(講談社、昭和四十七年)である。樺太・豊原市生まれの金子氏は、「北海タイムス」社会部長、編集委員などを務め、同紙に「樺太終戦ものがたり」を一年にわたり連載。この原稿が作家、吉村昭氏の目に留まり、単行本となった。

 八月九日朝のソ連対日参戦から、二十二日の停戦交渉前後までの約二週間の、樺太でのソ連と日本(軍だけではなく義勇隊・民間人)との戦闘の状況を克明に描いたものだが、四百人を超える関係者の手記とインタビューを合わせて、極めて密度の濃い戦場記に仕上げられている。

 ソ連軍を目前にして、家族同士の心中や自決が相次いだ。真岡中学の体育教師、平野太さんは、妻の真砂子さん(当時43歳)と四男、剛男君(同9歳)が、隣家の江村孝三郎少尉(同55歳)一家五人と共に自決したことを知らされる。収録されている平野さんの手記を紹介する。

 周囲の人の話では、江村少尉は家族四人と、平野さんの妻子に目隠しをさせて、首をはねた後、最後に自ら仏壇に面して切腹したという。知人の校長らは、その自刃を、口を極めて褒めた。

 平野さんは、綴(つづ)る。

 〈私としては、相手がソ連兵でなくてよかった、日本軍人、しかも長い間の友人によって、その一家と死を共にしたのだから、何もいうことはないと思った。ただ、なんとかして船で引き揚げさせようと思って、叱って区長のところへやったことがこうなったと思うと、悪いことをした、私が軽率であったとくやまれてならなかった〉

 死後、一カ月以上が過ぎて、道路脇に埋められていた遺体を掘り出した時の平野さんは、江村少尉の行動を尊敬する一方で複雑な心境でもあったと告白する。

 〈思考、意志という点でおとなの江村少尉と妻たちは、ある覚悟があって切られ、自決したのであろうが、子供たち五人は目隠しをされ、おそらくは合掌し、お題目をとなえながら首をはねられたのであろう。そのときの気持ちを思いやれば、私には名状すべからざる悲惨な悲しみがわいてくる。

 悲しかったであろう子供たちの気持ちを想像するたびに、思い起すたびに、じっとしていられないような気持ちになり、夜も眠りつけないことが、いまなおしばしばある。しかし、私よりももっともっと不幸な人びともあったであろうからと、忘れる努力をする以外にはない〉

 平野さんの手記は、江村さんの隣の官舎にいた同中学の軍事教練の助教官や柔道の教官、英語の鴨志田義平教諭の一家六人の自決などにも触れられている。鴨志田教諭は、外国語学校の出身で、かつて樺太国境警備の巡査だったが、敷香中学開校のときに英語教諭として迎えられ、後に真岡中学に移ったという。

 平野さんは、江村少尉の自決と、この英語教諭の自決を比較して、こう述べる。

 〈江村少尉の自刃を軍人のかがみとしてほめるのは当然であるが、英語教諭一家の自決については、周囲の人びとのほとんどが、あまり語らなかった。なぜだろう。私は一抹の寂しさをそのことに感じたものである。両家とも、子供たちを思う愛情が死に結びついたものであろう。そうであれば文官であった鴨志田先生の精神をももっと称揚してよいのではなかろうか。ただ、なんとか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったかと当時思ったこともあったが、これは私のごとき凡人の考えであるかもしれない〉

 万に一つでも、愛する妻子の体に敵のソ連兵の指一本も触れさせないようにするためには、自決しかない。死をもって家族を守ろうとした江村氏や鴨志田教諭の決断と行動を、「愛の極致」と称賛する気持ちに偽りはない。

 だが、その半面、平野さんは自問する。何とか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったか、と。

 誰も、この問いに答えることはできない。平野さん自身も。ただ、明白なのは、平野さんの手記に、自決に関して軍の強制があったとか、日本軍への恨み言などが一行も書かれていないということだ。
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by sakura4987 | 2008-06-24 11:20


 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133139-storytopic-12.html


 沖縄国際大の佐藤学教授が5月の中旬、ふと思い立って学生に尋ねてみた。「5月15日は何の日か知っていますか?」

 復帰記念日と回答したのは60人のクラスで2人、40人のクラスで6人。1年生のクラスでは18人中ゼロだったと聞き、がくぜんとした

 学生らにとって復帰は自分の生まれるよりはるか昔の話だ。5・15を知らなくても日々の暮らしに何の支障もない。高校の日本史は明治・大正までを教えるのが精いっぱいだ。沖縄の近現代史を扱う余裕はほとんどないから、学生ばかりを責められない

 とはいえこうした事態が進むと、社会を構成する世代の間に深刻な溝が生じかねない。つなぎ合わせる糸を欠いたばらばらの断片。まとまりのないジグソーパズルのような姿が現実味を帯びる

 よく指摘される本土との「温度差」は、沖縄と本土との間に共通認識がないからだろう。道州制でも識者は「九州と歴史を共有していない沖縄は、九州道に入る必然性がない」と言い、単独州になるよう求めている。だが今、その沖縄の内側で共通認識の崩壊が恐るべき速さで進んでいるのだ

 省みて、自分が次の世代に何を伝えているか、はなはだ心もとない。だが根っこを失った草が漂流するばかりなのも確かだろう。さて、目前に迫った「6・23」は、どれだけの学生が知っているだろうか。
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by sakura4987 | 2008-06-17 11:39


 (スポニチ 2008/6/13)

 http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20080613105.html


 日本の文部科学省が、中学の新学習指導要領の解説書で竹島(韓国名・独島)を「固有の領土」と明記する方針を固めたとの報道を受け、韓国の団体のメンバーが釜山の日本総領事館前で抗議し、総領事館の扉の一部を破損させていたことが分かった。韓国警察当局が13日、明らかにした。

 日本側は韓国側に対し、徹底捜査と再発防止を求めている。

 関係者によると、この団体は元北朝鮮派遣工作員やその遺族らで構成。メンバーら数十人が10日に抗議集会を開いた際、1人が出入り口の扉をハンマーで叩き、一部をへこますなどした。
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by sakura4987 | 2008-06-17 11:38


 (読売 2008/6/13)

 http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20080613ok09.htm


2008年版の男女共同参画白書を決定

 政府は13日午前の閣議で、2008年版の男女共同参画白書を決定した。

 日本は、女性の政界や経済界への社会進出度を示すジェンダー・エンパワーメント指数(GEM)が93か国中54位(07年)で、前年の75か国中42位に続き、低迷が続いていることが明らかになった。

 GEMは国連開発計画が調査可能な国を対象に、毎年公表している数値で、日本は、欧米だけでなく、ナミビアや、フィリピン、ベトナムなどより低かった。日本では、女性議員の割合が衆院9・4%、参院18・2%(08年度)、国家公務員管理職は、1・7%(05年度)にとどまっている。

 政府は、05年に閣議決定した男女共同参画基本計画で、「20年までに、指導的立場に立つ女性の割合を少なくとも30%程度」とする目標を掲げている。
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by sakura4987 | 2008-06-17 11:37


       最もよい休養は「睡眠」/新陳代謝回復でつく復元力

 (世界日報 2008/6/13)


メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄


■「メカ社会」に増える眼精疲労

 禅の言葉に「飢(う)え来たりて飯(はん)を喫(きっ)し、倦(う)み来たりて眠る」とある。

 即ち“お腹がすいたらご飯を食べ、疲れたら眠る”という当たり前のあるがままの生き方を説いたもので、これは臨済宗の開祖、臨済義玄の言行録『臨済録』に書いてある禅語である。

 確かに、“疲労は最善の枕である”とアメリカのベンジャミン・フランクリンは述べているし、また疲れたときに眠る休養に勝るものはないことを、スイスの法律学者、C・ヒルティも“あらゆる休養のなかで最もよいのは眠りである”と明言している(『幸福論』第三部・三)。

 昨今、「睡眠障害」や「眼精疲労」に悩まされている人が増えている。その背後には、長時間パソコン作業に従事する「メカ社会」の現状を無視することができないであろう。

 シカゴ大学のE・ジェイコブソン(臨床生理学研究所長)は、“目の筋肉の疲れをリラックスさせることができれば、人間は悩みを忘れることができるであろう”とまで語っている。つまり、「眼精疲労」は全神経エネルギーの四分の一(25%)を消耗しているという。

 長時間近くを見ていると、水晶体を調整する毛様体筋が緊張して疲れる。特に四十歳代後半以降は、目の調整力が低下するので時々筋肉をリラックスさせ、休んで遠くを見てリフレッシュすることが必要ではなかろうか。

 ジェイコブソンは、“疲労と悩みの予防の最も有効な方法は、休養すること、しかも疲れる前に休息すること”で「積極的休養法」を説いている。なぜならば、心身にダメージを与えるストレス(マイナスのエネルギー)がミトコンドリア(細胞内の生命体)に作用して、新陳代謝を妨げる。ところが休息や睡眠は、この新陳代謝力(細胞の生まれ変わり)を回復させて、生体の復元力で身を守ってくれるのである。

■煩雑な世事を忘れ脳を活性化

 次に睡眠時間と睡眠リズムも大事であり、日大医学部講師、兼板佳孝(睡眠疫学)は、睡眠時間が七時間位の人が最も「うつ病」(気分障害)になる確率が低いという調査報告をしている(平成十八年十二月一日付「読売」・夕刊)。

 また、米国スタンフォード大学(人間熟眠研究所)によると、睡眠不足が潰瘍・心血管疾患・高血圧・記憶力低下など深刻な問題を引き起こすと警告しているし、更にニュージランド・オークランド大学(研究チーム)によると睡眠不足は情緒不安定や行動障害を引き起こす危険性が高いという(本紙・平成二十年一月四日付)。従って、眠ることによって、煩雑な世事を忘れて脳を活性化させることができ、心身ともに健やかにする。

 いみじくも、“眠ること、それは無関心になることである”と語ったのは、ベルグソン(フランスの哲学者)である。

 「不眠症」の多くは、何かに捉われて、不安と焦りに苛まれているのではなかろうか。

 焦らず、捉われない生き方が大事であると同時に、「不眠症」を解消する秘けつは、生活リズムを規則的にし、努めて朝早く起きて日光を浴びて、セロトニン(神経の伝達分物)の分泌をよくすることによって、気分が落ち着いて、少しずつ意欲が湧いて来る。無理をせずに、上手に睡眠リズムに乗せていく工夫を試みてはいかがだろうか。

 また近ごろ、子供たちの「朝寝坊の宵張り型」の傾向のなかで、朝食を食べない「欠食児」が多くみられることは実に嘆かわしいことである。

 文科省が“早寝早起き朝ご飯”を提唱するまでもなく、基本的な生活習慣の確立こそ、生きる基本であり、特に脳の発達を考えれば、記憶力と睡眠とは密接な関連があり、脳の記憶の倉庫(海馬)の扉は、睡眠中に開いて記憶として残る。従って日中に感動したり、興味深く熱中した学習は睡眠を通して記憶の中枢である海馬という倉庫に蓄えられて、必要に応じて記憶のなかから蘇ってくるのである。

■自分にあった良い眠りを保つ

 更に大事なことは、睡眠の質である。

 脳の休養のために、睡眠はその質が問われる。

 アメリカの外科医、ドワイトによれば、「夜十二時前の睡眠は脳の休養に良く、十二時前の一時間の睡眠は十二時過ぎの二時間に相当する位、脳の疲れを回復してくれる」という。

 また、古くより“食後の睡眠は銀、食前の睡眠は金”といわれているが、よく眠った後の食事は実においしく消化吸収もよい。

 また、“食後の睡眠は万病の薬”とまで言われる程に、食後胃を休めることは、代謝力をよくすると同時に免疫力を高めることにもなる。

 いずれにせよ人間は眠らずには生きられないものであるが故に、いかに自分にあった睡眠を保つかということは大事なことである。

 イギリスの劇作家、W・シェークスピアが“快い眠りこそ、自然が人間に与えてくれるやさしい看護婦である”と語っている(「ヘンリー四世」)ように、努めて快眠・熟眠・安眠を心掛けたいものである。
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by sakura4987 | 2008-06-17 11:37


 (中国情報局 2008/6/16)

 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0616&f=politics_0616_002.shtml


 大陸メディアの中国新聞社電は16日付で、台湾の海岸巡防署は所属する艦船に対して同日までに、尖閣諸島(中国語名:魚釣島)付近で台湾船を保護を強化し、日本の巡視艇に攻撃を受けた場合には発砲して反撃することを許可した。


 海岸巡防署は日本の海上保安庁に相当する。同暑巡視艇は尖閣諸島から12海里の海上で「巡視」を続けるが、将来的には海域の「主権」を維持するために12海里以内の海域に入ることもありえる。

 台湾船が「主権を主張」するために同島に接近する場合には、随伴して12海里以内に進入する。海岸巡防署公関科の謝慶欽科長によると、日本側に攻撃された場合には、発砲を含めて反撃の許可を巡視艇艦長に与える。将来は、さまざまなケースに対応するマニュアルを制定する。

 謝科長は一方で、「外交」による問題解決を望んでおり、不要は衝突は避けたいとの意向を示した。

 尖閣諸島は日本が実効支配しているが、1971年に中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)が「本来は中国の一部だ」などとして領有権の主張を始めた。


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◆領海侵入は遺憾-町村氏 台湾船沈没は双方に問題

 (共同 2008/6/16)

 http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008061601000310.html


 町村信孝官房長官は16日午前の記者会見で、尖閣諸島・魚釣島沖の日本領海に台湾の抗議船1隻と巡視船9隻が侵入したことについて「外交ルートで再三警告、申し入れを行ったにもかかわらず誠に遺憾だ。関係者が冷静に対応することが必要だ」と述べ、台湾側に強く自制を求めた。

 同時に、10日に台湾の遊漁船が日本の巡視船と衝突して沈没し、その後に日本の海上保安庁が巡視船側にも過失があったと認めたことに関し「双方に問題があった。台湾側と遊漁船の船長に遺憾の意を表明した」と述べ、既に台湾側へ謝罪したことを強調した。

 また町村氏は「尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的、国際法上も自明の理だ」とした上で、「今回の事態で近隣諸国、地域の平和が乱されることがあってはならない」と述べた。


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◆台湾船沈没、海保が謝罪 「巡視船にも過失あり」

 (東京 2008/6/15)

 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008061501000500.html


 尖閣諸島・魚釣島沖で日本の巡視船と衝突した台湾の遊漁船が沈没した事故について、第11管区海上保安本部(那覇)の那須秀雄本部長は15日、同本部で記者会見し「巡視船にも過失があった」として、台湾側に謝罪の意を示した。

 那須本部長は「巡視船が船名を確認しようと遊漁船に近づいた行為は正当だったが、接近の仕方に過失があった。結果として遊漁船を沈没させ、船長にけがをさせたことは遺憾だ」と述べた。

 台湾側から求めがあれば、賠償する考えがあることも明らかにした。

 事故は10日に発生。双方から事情聴取した石垣海上保安部は14日、巡視船の船長を業務上過失傷害と業務上過失往来危険の疑いで、遊漁船の船長を業務上過失往来危険の疑いで、それぞれ書類送検した。


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◆米在台湾協会所長、日台に平和的解決求める 遊漁船沈没事件

 (AFP 2008/6/16)

http://www.afpbb.com/article/politics/2405853/3040152


 尖閣諸島・魚釣島沖で台湾の遊漁船が日本の巡視船と衝突し沈没した事故について、米国の事実上の駐台大使であるスティーブン・ヤング氏は15日、日台に平和的解決を呼び掛けた。

 米国の在台湾協会所長を務めるヤング氏は記者団に対し、遊漁船沈没を巡る日台間の問題について、米政府は干渉しないと話した。

 台北にある超高層ビル「台北101」で開催された階段駆け上がりレースを完走したヤング氏は、「日台は伝統的に親密な関係を持ってきた。だから今回の問題についても、平和的解決をすることができるはずだ」と述べた。

 台湾の薛香川行政院秘書長は15日、台湾政府は台湾沿岸警備隊に、尖閣諸島・魚釣島近辺の海域に配備する武装巡視船を現在の4隻から7隻に増強するよう指示したと発表した。また台湾海軍は18日に同海域にミサイルフリゲート艦を派遣する。


≪■フリゲート艦≫-wikipediaより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88


 フリゲートは一般的には駆逐艦より小型のものを指すが、現在ではミサイル搭載艦も多く、駆逐艦との区別は次第に曖昧になってきている。フリゲートという艦種の明確な定義はなく、各国が独自に分類しているのが実情である。
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by sakura4987 | 2008-06-17 11:34


 (共同 2008/6/15)

 http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008061501000473.html


 15日の米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、スイス当局が「核の闇市場」に関する捜査で押収したコンピューターに、小型核兵器の設計図が含まれていたと報じた。国際原子力機関(IAEA)の元査察官が近く出版する報告書で明らかにした。設計図がイランや北朝鮮などに渡った恐れもあるという。

 この小型核は爆発力は高くないが、イランや北朝鮮が持つ中距離弾道ミサイルにも搭載できるという。報告書をまとめた元査察官のデビッド・オルブライト氏は「所持するミサイルに合うよう核弾頭を小型化するのに苦労していたイランや北朝鮮にとって理想的だった」と指摘している。

 報告書によるとコンピューターは、パキスタンの科学者カーン博士らが構築した「核の闇市場」にかかわったスイス人家族が所有し、2006年に発見された。
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by sakura4987 | 2008-06-17 11:34

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987